がたんごとん。平行に流れてゆく景色。右手から伝わる低体温。肩に寄りかかった頭の重み。彼の匂い。緑の猫っ毛が揺れ動いている。微かに耳に触れる息遣いは一定速度。車両には二人ぼっち。白いシャツと黒いシャツが光を受けて陰影を作っている。がたんごとん。
「起きてる?」
「ああ」
「誰もいないんだから、寝るなら横になったら?」
「嫌だ、寝ないしこのままが良い」
「はいはい」
二十歳と二十一歳の夏。大学生の僕と未だ高校生の優介は二人だけで遠出をすることに決めた。しかしながら行き先も何も選ばず、ただ電車に乗って降りたい所で降りるという、帰ってこられるのかもよく分からない逃避行だ。旅行ではない、まさに逃避行なのである。二十歳の癖に、現実だとか、社会だとか、目に見えない概念に雁字搦めにされることが急に恐くなった僕に付き合ってくれた優介も、抱えきれなくなった寂しさやもどかしさや何もかもから逃げ出すことを望んだのだ。大人になりきれない大人が子供であろうとしている。退行だ。駄々をこねているようなものである。旅だとか、逃避行だとか、聞こえの良い言葉を並べてはみるものの、些か格好が悪い。それでも、二人だけの世界に浸っているのだから、虚勢も外面も何もいらないのだ。なんて無意味で、それでいて幸せなのだろう。
人形のようにだらりと力を抜いている優介の頭を撫でようと思い立ったものの、姿勢のせいでしっくり来ない。それでも何かコミュニケーションが取りたくて、何度か呼吸を繰り返してから適当な質問をした。
「優介は何処に行きたい?」
「遠く。しばらく帰れないくらいが良いな。は?」
「そうだね、宇宙とか」
「銀河鉄道?」
「このまま少しずつ電車が浮いてってくれないかな」
「残念だけどこれは鉄道じゃなくて電車だ」
「本当だ、失念してた」
少し笑うと肩が揺れたのか、ずるりと優介の頭の位置がずれた。あ、と思ったら、その勢いなのか、彼は繋いだ手を解いて、僕の膝に頭を落とした。しばらく頬擦りするようにごそごそと動いていたが、丁度良い位置を見つけたのか、そのまま動かなくなった。寝ないと言っていた筈なのに、やはり眠くなってしまったのだろう。それにしても今日はまるで猫のようにすり寄ってくる。可愛いな、と呟きながら髪を撫でていると、先程そうしようとしていたのに出来なかったのを思い出した。嬉しくなって、髪を梳いたり耳に掛けたりしていたら、「可愛くない」と眠たげな声で優介が呟いた。タイムラグがあったことを不審に思って顔を覗き込むと、髪を避けた耳や頬が少しばかり赤くなっているのが見えた。やっぱり可愛いじゃないか。
「可愛いって言われるのは嬉しくないんだけど」
「他の言葉が良いってことかい?」
「ああ」
「そうだね、うん、愛しい」
「いとっ…意味は同じだろ!」
「駄目なのか…」
「だ…駄目じゃない!」
「そういうところが可愛い」
「うるさい!」
腕で目元を覆い隠して脚をじたばたさせる様が子供じみていて、僕は再び笑った。優介が好きだから自然と笑ってしまうのだ。更に言えば、男が同じく成人男性に対して可愛いと感じてしまうのは果たして正しいことなのかと問われても、僕は同様に笑ってしまうだろう。優介が愛しくて仕方がない自分が可笑しいから笑うのか、幸せだから笑ってしまうのか、いまいち判別しかねる。けれども、一層狂っているとでも思われた方が気楽に違いない。
天上院吹雪曰く、これは最早恋であるのだそうだ。生憎彼は同性を好きになってしまった僕を否定もしなければ好奇の視線を向けることもなかった。彼以上に器が大きい人間を僕は知らない。丸藤亮も驚きはしたものの、吹雪より大人しく僕を見守ってくれた。本当に、良い友人に恵まれたものだ。僕も、優介も。二年間の空白のずっとずっと前から。その後も。
「何考えてるんだ?」
「ん? 吹雪と亮のお土産は何にしようかなって」
「そんなの菓子で良いじゃないか」
「えー、木彫りの熊は?」
「木刀とか?」
「修学旅行で買っちゃうようなの」
「吹雪はともかく丸藤は困るだろ」
「そうかな。亮は天然だから翔くんに突っ込まれるまで何も言わないと思うよ」
「ああ、想像できる」
「そもそも、お土産を見付けて帰って来られるかも分からないんだけどね」
「引き返したい?」
「いいや全く」
僕の否定に対して満足気に頷いた優介がとても幸せそうで、僕はこのまま電車が何処までも何時までも進み続けてくれることをほんの少しだけ願った。だってそうなったらなったで、きっとお腹もすくし退屈にもなりそうだもの。
手持ち無沙汰な状況に耐えきれず、結局また優介の髪に手を伸ばしてしまう。彼は彼で抵抗することなく、僕の顔を下からじっと眺めては瞬きを繰り返し、遂には目蓋を下ろしてしまった。安らかな寝顔である。今ならキスの一つくらいバレないかもしれないんじゃないかと魔が差す。本当に眠っているのならやってしまおうと決心して、口の中の唾液を飲み込んだ。
「ところでこの電車、何処に向かってるんだろうね」
答えの代わりに寝息が返ってきた。しかしこの体勢では作戦は決行出来そうにない。僕はただ、優介の額から前髪を払って、頬にそっとキスをして、停車時の大きな揺れのせいで優介が転がり落ちることのないようにすることを念頭に置きながら、同様に目を閉じたのだった。
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