この感情に名前を付けるべきではない。何故ならこれは彼に抱くべき形の愛情ではないからだ。つまりそれは同時に、彼から同様に想われるとは到底思えないからでもある。
運転席でハンドルを握るさんは明日の俺のスケジュールを口頭で説明したり、俺達のプロリーグの新しいスポンサーについて確認したりしながらも、時折世間話を織り交ぜている。俺は彼の些細な話が好きだ。マンションの隣の部屋の猫が可愛いことや、近所のパン屋の新作のことや、最近見付けた美味しいレストランやバーのこと。そしてそれらをとても楽しそうに話すさんが好きだ。
彼は俺のマネージャーであり、俺たちのプロリーグリーグを裏から支えてくれる貴重な人材だ。元は他のプロリーグの運営をしていたそうだが、俺が翔と新しいプロリーグを作ると聞きつけて、仕事をやめてまでスタッフの一員となることを希望してくれた。経験があるのはもとより、人柄も良く、手際よく仕事をこなしてくれる完璧な人材であるのに、貯蓄があるから大丈夫だと言い張り最低限の給料しか受け取ろうとしない。経営状態が落ち着いてきた今でさえそうなのだ。四捨五入すれば三十になるような年齢で、将来のことを考えても良いようなのに、いつだって俺や翔のことを優先させる。理由を訊けば、俺のデビュー同時からのファンだったからだと恥ずかしそうに答えてくれたが、何から何まで、申し訳のない思いで一杯になる。恥じるべきなのは、彼に邪な想いを抱いている俺の方なのに。

「ああ、ごめんな。疲れてんのに仕事の話ばっかりで」
「大丈夫だ、そこまで疲れてはいない」
「寝てて良いぞ」
「いや…眠くもないんだ」
「じゃあうちで飯食ってく? 呑まなきゃ家まで送って行けるだろうし」

目を見張った。彼の自宅、マンションには何度か行ったことがある。だがそれは仕事の関係者数人と酒を呑みながら話す時だったり、忘れ物を取りに寄るだけだったりで、二人でプライベートで過ごす目的であったことは一度もなかった。さんの料理はざっくりしているが味があって俺は好きだ。部屋も取り込んだ洗濯物や読みかけの雑誌が積んであって片付いているとは言えないが、片付けさせて貰えば良い。抵抗があるという訳ではないのだ。ただ、変に緊張してしまう自分に困惑している。俺自身、何を期待しているのかすら分からないというのに。
そうして黙り込んだ俺にさんは慌てて付け加えた。行きたくないと考えているとでも思われたのなら心外だ。

「翔に頼まれてんだよ。亮は一人にすると碌に飯も食わないから見ててくれって。俺も今からじゃ大したもんは作れないけど、亮が嫌じゃなければ」
「………行く」

数拍置いてから、「食事も本当に簡単な物で良いし、帰りも自力で帰るからさんは好きに呑んで貰って構わない」と付け足す。彼も仕事をこなした後なのだ。疲れている所に負担を掛けたくない。
それにしても、翔は俺を何だと思っているんだ。まさか俺のさんに対する好意の重さを知っているのではあるまいか、いや、一切口にしたことはないからそれはないだろう。

「あーなら泊まってくか? 服は俺の貸すし、近所のコンビニで歯ブラシと下着買えば何とでもなるだろ」

赤信号で停止するのと同時に、さんは前髪をかきあげながら気怠げに訊いた。どくりと心臓が大きく脈打って、頬も熱くなる。さんのプライベートに踏み行ってゆくことにどうしてこうも緊張して、胸が苦しくなるのだろうか。親友に口うるさく言われてきた言葉が頭を何度もよぎったが、このままではかき消せなくなってしまう。雑然とした脳内のせいで、恐らく今の俺は見せられる顔をしていないだろうから、窓から景色を覗く振りをして大きく息を吐いた。断らなければならない。いや、勿論迷惑を掛けるのが嫌であるのだが、それと同時に、この気持ちをはっきりさせてしまうことに躊躇いがあった。
しかしながら当の彼は、俺の断りに対し、「そっちのが楽」の一言で撥ね退けてしまったのである。こうなったらどうしようもない。俺は彼の言うことに関しては、仕事について以外は従ってしまうのが常なのだ。こんな所でまで嘗ての優等生気質を発揮する羽目になるとは思っていなかったが、二十歳を過ぎてまでこんなに素直な態度を示せるのはさんの前くらいのものだ。

「…分かった。ありがとう」
「礼なら翔にメールでもしとけ。もう寝てんじゃないか?」
「翔も勿論だが、本当にさんにも感謝してるんだ」

信号機を眺める彼の横顔を見詰めていると、青信号になる直前、一度だけ彼はこちらを向いて、目を合わせた。それから左手を俺の頭に伸ばす。撫でられるのか、と胸の奥がざわついた。心臓の音は聞こえないけれども、自分の鼓動を感じる。
しかしそこで、前の車が進み出してしまった。横目でそれを見て残念に思っていると、それを察したのか、さんはやけに大人びた笑顔で、俺の髪を一房だけ梳いた。それからハンドルを握り直して、前を向く。こめかみに微かに触れた指先の感触がまだ肌に残っていて、俺はその部分に触れたくなった。実行はしなかったが。

「良い子にはデザートにハーゲンダッツ付けてやろう」
「子供じゃないぞ」
「弟みたいなもんだからな」

俺の溜め息を一笑に付し、さんは俺を弟と呼んだ。嫌だ。嫌悪感でも不快感でもないが、否定したくて胸が痛くなった。弟では遠すぎるのだ。それでも否定して更に遠ざかるのにも耐えられない俺は、唾液と共にその単語を嚥下する。

「…俺も、…貴方を兄のように思っている」
「はは、嬉しいな」

上手く笑えはしなかっただろう。それでも絞り出した一言に彼が喜んでくれるのなら、それを受け入れる他ない。これ以上首を絞めるのが嫌で、彼を見ないように真っ直ぐフロントガラスを向いて、俺は何も考えないようにした。らしくない。それでももうこれ以上自分から深みに嵌りたくはなかった。

「でも嘘吐きは好きじゃない」

ふと、景色が止まっていることから車が道路脇に停車していることに気付き、さんが俺の耳元で囁いた言葉を理解するのに手間取った。そうして油の切れた絡繰り人形のようにゆっくりとぎこちなく運転席へと首を回すと、暫くの間呆然としたまま、口が半開きであるのすら忘れて、愉しそうに目を細めた彼を見詰めてしまった。筒抜け。不意に頭に浮かんだ言葉が的を得ていて、苦々しい気分になった。
段々と近付いてくる顔と鼻先を掠める香水の匂いに降伏して、頬と顎に添えられた手に倣って目蓋を下ろして、下唇を食まれる感覚に幸福感を得て、そうして結論。これを恋だと認めよう。ついでに言えば、あなただって嘘吐きだ。






(110325)