例えば伏せられた目蓋を縁取る銀色の睫毛だとか、或いは濁りのない深紅の虹彩だとか、若しくは右目を覆い隠す無限を象った仮面だとか、白い頬に通ったライン、艶やかな髪、歪められた薄い唇、通った鼻筋。お人形さんみたいに綺麗な顔が目を閉じた瞬間に思い浮かんだが、決して作り物みたいに美しい造形に想いを馳せている訳ではなく、寧ろ仮眠を取ろうとしても呪いのように頭から離れない上司の顔をわたしは忌々しく思っているのだ。この上司、プラシド長官に馬車馬の如く酷使されたわたしの体力はとっくに尽きていて、徹夜明けだろうと家に帰れやしないし、その上あれやこれや長官に回す筈の仕事も最後の工程以外はわたしに回してくるし、ルチアーノ長官は無邪気にも作業妨害を繰り広げに来るし、ホセ長官もそれを放任している。良い加減にしてくれなんてあの上司たちに言える筈もなく、労災認定もして貰えなさそうなこの状況に甘んじていたのだが、人間の三大欲求の一つである睡眠欲には勝てなかった。眠ったら死ぬ、というか殺される。だが寝ないと仕事に全く手が付けられず殺される。

「あれぇ?何ごろごろしてんのぉ?職務怠慢じゃん!」

目頭を指で押さえてソファーで横になっていた時だった。来るな来るなと念じ続けたその人たちの片方が大きな音を立ててドアを開けて、ずかずかとわたしが寝転んでいるソファーまで近寄ってくる音が聞こえた。この高い声は間違いようもなくルチアーノ長官である。お願いだから寝かせて下さい。

!」とわたしの肩を揺さぶる長官をはねのけるように、寝返りを打って、背もたれを向く。それでルチアーノ長官が諦めるとは到底考えてはいなかったが、せめてもの意思表示である。意識か混濁しつつある中でわたしはよく頑張っている方だ。

ー!僕新しく出来たドーナツ屋の限定のが食べたい!」
「いってらっしゃいませ」
「はあ?が買いに行くんだろ?」
「プラシドちょーかんにだまってていただけるなら…」

買ってきます、と続ける前にわたしは力尽きた。もう瞼が上がらない。それもこれもこの上司始め白いローブの三人組と逃げたドングリピエロ、つまりイェーガー副長官のせいだ。そもそもわたしは、治安維持局で可もなく不可もない位置で、それなりにお仕事をして、大抵の日は定時に上がり、元キングのジャック・アトラスの試合をテレビで観戦しながら休日を過ごし、時々セキュリティーのデュエルチェイサー、風馬走一さんを見ては友人ときゃーきゃー言ってたような、何処にでもいる女性職員の一人だったのだ。風馬さんはマジで格好良い。あの爽やかなイケメンは目の保養である。それはさておき、イェーガー副長官が長期休暇と題して仕事ほっぽって逃亡したため、適当に一人補佐官を見繕わなければならなくなった。結果、何故かわたしに白羽の矢が立ち、数週間前までとは打って変わってあまりの忙しさに死にそうになったものの、長官の権力でわたしの立ち位置は極秘事項とされたため、移動した後付き合いの悪くなったと思われたのか友人からメールも来なくなってしまった。この年で友達もいないなんて人生終わったな。

嫌な思考がぐるぐる脳内を巡り廻ってきたせいか、寝苦しさに寝返りを打とうとしたら、体の位置に違和感を感じた。ソファー一杯に体を伸ばしていた筈なのに、大分下に押しやられている気がする。しかも頭を肘掛けに乗せていたはずなのに、側頭部から何故か最高級ソファーに比べて幾分も堅い感触がする。頬に触れる布もソファーとは違う。床に転げ落ちたのかと少し考えたのだが、これはカーペットの触り心地ではない。億劫だが目を開ける他ない。嫌々ながら重い瞼を上げると、今最も会いたくない人がわたしを見下ろしていた。

「プラシド長官!?」

悪夢だ。これは夢だ。疲れが溜まりすぎたんだ。早急に目を覚まさなければならないと思い立ち、上半身を起こそうとしたが、夢か現実か分からないプラシド長官に鎖骨の下を押さえつけられた。若干胸に触れられているのだが、気にしてしまうと気不味くなるので、指がめり込んでいて非常に痛いことに集中するようにした。しかし、これで今の状況が現実であると把握できた。現実であっては大いに困るのだが。だって仕事中に力尽きて寝てるのが一番面倒くさい上司にバレ、しかも何故か膝枕だ。意味不明。更に言えばパワハラなのかセクハラなのか分からないことをされている。当の長官はと言うと、背もたれに腕を回して大分寛いだ姿勢でモニターを見てるのだけれど。またしても不動遊星のデュエルを観戦中の模様である。身動きが取れない上に痛い。そして自分が化粧も落とさずに寝てしまったことに気付き、今すぐにでも洗面台に駆け込みたくなった。

「お見苦しい所をお見せ致しました、あの、手を」
「虫ケラ如きが俺に指図するつもりか?」

フードの中から覗く無機質な赤い目に竦み上がった。蛇に睨まれた蛙ってこういうことか、蛙にはなりたくないけど。ああもう、ホセ長官でもルチアーノ長官でも誰でも良いから来てくれないだろうか。更に言うならばドングリピエロがさっさと帰って来れば良いのだ。そもそもの原因はあのチビなのだから。

「長官、わたし仕事が残っておりますのでそろそろ」
「そんなものはどうでも良い」

良くねえよとうっかり言いそうになったが、わたしだって命が惜しい。適当に理由を付けてこの場を離れるしかない。そういえばさっきルチアーノ長官にパシられそうになっていたっけ。プラシド長官にわたしの仮眠をバラさなければと条件を付けたが、果たして今此処にその人がいるのはルチアーノ長官のせいなのか、運が悪かったのか。まあいい、これしか口実が見当たらない。

「ルチアーノ長官に買い物を頼まれているのですが」
「ふん、こんな時間にか?」
「え?」

腕時計を確認して絶句した。わたしが仮眠を取り始めたのはルチアーノ長官のおやつ時だったのに、今ではスデに夕飯どころか良い子はとっくに寝てる時間だ。ルチアーノ長官がこの時間に就寝してるかは知らないけれど。八時間睡眠とは健康的だが、状況が状況であるせいで全く喜べない。これはプラシド長官に見付かっても仕方がない。

「明日朝一で並びに行くしかないですね」
「何故貴様が行く」
「え?」
「貴様はルチアーノを甘やかしすぎだ」
「そんなことないと思います、けど」
「俺はあの餓鬼のために貴様が外出することは認めん」

ホセ長官に許可を貰えれば、多数決の原理ではわたしは外出出来るのだけれども。今それを言ったらもっと機嫌を損ねるんだろうと思うと黙るしかなかった。プラシド長官は無表情でわたしを見下ろす。そこでふと、唇が微かに赤みがかっていることに気が付いた。唇の真ん中が少しだけ。苺ジャムでも食べたのだろうかと思ったが、そういう透明でてかてかした赤さじゃない。しかも、真っ白いローブの袖にも赤い汚れがあることを発見した。血液とかそういう色じゃないし、何なんだろう。見覚えはあるのだが上手く思考を引きずり出せずに悶々としていると、長官はわたしを押さえつけていた手を退けた。息苦しさから解放されてほっとしたのも束の間、いつものように罵られる。

「虫ケラはせいぜい俺のために蟻のように働いていろ」

咄嗟に上半身を起こしていて良かった。長い脚をすらりと伸ばして立ち上がった長官に、床に転がり落とされる所だったのだ。こちらに見向きもせず、プラシド長官はいつも持ち歩いている長剣を伸ばして、何処かへ消えてしまった。あれが何なのかいつも気になってはいるのだが、仕組みを訊いたって教えてくれないだろうし、聞いても理解出来ないだろう。わたしは理系じゃないし。溜め息を零し、寝起きの目を擦ろうとして、自分が化粧のことを考えていたのを思い出した。

洗面台の鏡を覗き込むと、一番不安だった目元はそれほど酷くはなかったことに安心したが、口紅が大分剥げ落ちていて驚いた。もしかしてあのお高いソファーに付けてしまったのではと一気に顔が青ざめたが、確認してみても汚れてはいなかった。再度鏡の前で口紅を繰り出してみて、ふと思い当たった。プラシド長官のローブに付いてたのってこれじゃないの? やばくない? 洗濯で落ちるの? そもそもこれわたしが責任取らされんの? でもプラシド長官、言及しなかったし。それに、袖に付いてたのが口紅だとしたら、唇の赤いのだって。そう考えるとものすごく恥ずかしくなったので、頭を切り替えることにした。

「お茶淹れよう」

口の中がパサついて仕方ない。戸棚を開けて、ティーバッグのストックも補充しなければならないと思い立つ。折角だから明日ついでに買いに行くことにする。こんな所で働きでもしない限り縁もなかったであろう高級品のティーカップにティーバッグを突っ込んで、電気ポットからお湯を注ぐ。そして紅茶が出来るまでにすぐに化粧を手早く直して戻ってくると、ソファーに大きな図体が鎮座なさっていた。今日は次から次へと、と顔をしかめたくなったが、ホセ長官は三人の中で一番無害なのでまだ気楽だ。飲み物が必要ないことを確認して、向かい合って腰掛けた。

「疲弊しているようだな」
「ええ、まあ」
「残念だが、此処から解放される見込みはない」
「全然ですか?イェーガー副長官が帰って来られても?」
「当分帰っては来まい」
「そう思います」
「プラシドが多くの人間から君を選んだ以上、逃げられはせんよ」
「例え話にしては大袈裟ですね」
「例え話ではない。事実だ」

「なんだか都市伝説とかパニック映画みたいです」と冗談めかして言うと、ホセ長官はフードから覗く目を細めた。笑い事ではないということだろうか、冷や汗が垂れてきた。ストーカーとか監禁とか、まあ、あのプラシド長官だからないだろう。監禁というよりも缶詰だ。ついでに言えば、買出しに外に出ることだってできる。

「事実だとしても、どうしてです?」
「あれは自分のお気に入りを取られるのが気に入らないのだ」
「お気に入り、」
「尚且つ常に手許に置いておかねば落ち着かない。あれくらいの年頃とはそういうものだ」

老成した風に見えるホセ長官が言うのだから、若いってそういうことなのだろう。多分恐らく。だとしてもわたしにはさっぱり分からない。プラシド長官に気に入られる要素もなければ、選ばれるような突出した能力もないし、今日だって諦めて寝落ちした。惚れた腫れたに一々顔を赤くするような年頃でもないけれど、それがあの我侭堅物上司が相手じゃあまともに脳内で話に収集をつけられそうにないのだ。もしかしたら、恥ずかしいことに思い過ごしかもしれないが、寝ている間にあの作り物めいた顔を近づけられてキスされたのかもしれないということを思うと、非常に困ったことに顔を合わせ辛くて仕方がない。まあしかし、それも日が昇ってから考えるとする。開店したばかりの人気のあるドーナツ屋に並ぶのに今の状態では体力が持ちそうにない。ホセ長官がいなくなったら化粧を落として本格的に寝ようと思う。

「ああ、そうだ、長官。わたし明日ドーナツ買いに行く予定なんですが、何か他に欲しいものはありますか?」
よ、それは儂よりもプラシドに訊くべきではないのか?」

明くる日、ルチアーノ長官は探すまでもなく、廊下をふらふらと彷徨うわたしの腰に後ろからダイレクトアタックしてきた。小さいながら瞬発力のある子供の勢いによろめいたわたしを笑い飛ばし、にやにやとわたしの顔を見上げている。何とも言えずに黙っているわたしに、「着替えてくるから待ってなよ」と言い残して数分後、赤茶色の見事な長髪を三つ編にして、いいとこのお坊ちゃんのような服を着た長官が現れた。

ルチアーノ長官と仕事中よりも幾分かカジュアルめな服装のわたしは姉弟に見えるだろうか。人攫いだとか、ショタコンの変質者に見られてなければ良いのだが、それも連日の疲れから来る考えすぎだと思いたい。

「バグだよ」、プラシド長官への悪口を言い続けていたルチアーノ長官は、わたしが適当に聞き流していることに腹を立てたのか、何でもお見通しだとでも言いたげに、昨日の目撃談を語り出した。そして、プラシド長官の行動について比喩を用いた。いまいちピンと来ない。バグ、と呟いたわたしに、ルチアーノ長官は楽しそうに説明を始めた。

「壊れたコンピューターじゃ自分に何が起こってんのか分かんないでしょお?」
「他のコンピューターなら調べられるってことですか?」
「まあね、それで直し方が見付かるとは限らないけど!」
「つまり、プラシド長官に自分では気付かれていないあまり良くない部分があって、それをルチアーノ長官は知っている?」
「半分くらい当たってないね」

ケラケラと甲高い声でルチアーノ長官は笑う。バグが何を指すのかはわたしの知り及ぶ所ではないが、プラシド長官の膝枕や我侭が例えばそのバグやらウイルスやらのせいだとしたら、さっさと病院に行って貰いたいものである。巻き込まれたって碌なことになりそうもない。

「ところでルチアーノ長官」
「なあにぃ?」
「プラシド長官にドーナツ持ってったらご機嫌取りになると思いますか?」
があーんって食べさせてやれば?」
「ルチアーノ長官にならやっても良いですけど」
「じゃあやってよ、プラシドの目の前でね!」
「また怒られそうなのでそれは遠慮させて頂きます」
「あーあ、プラシドも僕もかっわいそー」



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