エド・フェニックスというこの若き一流プロデュエリストは相当の馬鹿である。背は高くないけど顔が綺麗で頭も良い金持ち。女性ファンだって多い。しかし馬鹿である。何処がどう馬鹿なのかと言えば、十代だとかクロノスせんせーだとかの大抵の年上に対しては生意気なタメ口を利く癖に、あたしを前にすると見るからにガッチガチに緊張して、敬語を使いながらも支離滅裂なことばかり言うといういかにも分かりやすい行動を取るあたりだ。それだけじゃない、アカデミアに来る度にあたしに何かプレゼントを持って来るし、あたしが受け取ろうとしないと捨てられた子犬のような泣きそうな顔をする。あたしが十代や万丈目あたりと二人で話してたらずうっとこっちを見て、その内適当なことを言ってあたしともう一人を引き離そうとする。今だってそうだ。 「いっそのこと、君の好きなようにすれば良いじゃないか」と吹雪さんは囁いた。その言葉と声音の毒々しさに背筋が粟立った。好きなように、と言われたって、エドはあたしの言うことなら大抵聞いてしまう。黄金の玉子パンだってドローパン買い占めて用意するだろう。だけど吹雪さんの言う「好きなように」は意味合いが違う。あたしにエドを襲えと言ったのと何ら変わりはない。誰がそんなことするか。 吹雪さんがあたしの頬にキスしたことにエドはかなりご立腹のようで、クルーザーに着くまで唇を噛み締めて黙々とあたしの横を歩いていたが、吹雪さんにとってはあれくらい挨拶でしかないと思う。むしろこの馬鹿がそういう挨拶に此処まで反応することに驚いている。まあでも、普段から挨拶にキスするエドなんて想像できないけど。ヨハン・アンデルセンならともかくとして。 「アイスティーで良かったですか?」 「うん、ありがと」 グラスにエドのお気に入りの茶葉で入れた紅茶が注がれるまで、ずっと、いつになく真剣に、エドのことを考えていた。そして気付いた。あたしはエドのことをあまりにも知らない。誕生日も血液型も身長も、生まれも育ちも、そしてどうしてあたしを好きでいてくれるのかも、彼の口から聞いたことがなかったし、あたしが彼に尋ねたこともなかった。 「先輩、あの、さっきは」 「エドはあたしとどうしたいの?」 「どうって…僕は…」 頬を赤らめて俯く様は絶対に女のあたしより可愛い。あたしは向かい合って座った席を移動して、真横の椅子に腰掛けた。 「あたしはエドのこともっと知りたい。不公平でしょ、エドはあたしの好きなものを教えなくても沢山知ってて、いつもプレゼントしてくれるのに、あたしはエドのこと何にも分かってない」 ね、と顔を覗き込むと、勢い良くエドは顔を上げた。真っ白い肌に赤みが差しているのはいつもと変わりないけれど、目元にうっすらと涙が浮かんでいて、あたしは驚愕した。何かエドを傷付けるようなことを言ってしまったのだろうかと不安になっていると、彼はおずおずと口を開いた。 「僕は好きになって貰いたくてあなたを好きでいる訳じゃないんだ」 拍子抜けして間抜けな声が漏れてしまった。頭の良い人の考えはあたしじゃあ簡単には理解できないと分かってはいるが、散々あたしにアプローチをかけてきたこの男がそんな結論を持っているとは想像すら出来なかった。 「あたしはあんたを好きになっちゃいけないってこと?」 「僕は…怖いんです」 「何が?」 「あなたが僕を好きになってくれるなら、こんなに嬉しいことはないはずなのに、僕は怖くてたまらない」 追及するまでもなく、エドはあたしの目を合わせて、一時も逸らさずに続けた。あたしは一言一句聞き逃さないように耳をそばだてる。「先輩が僕を知っていく内に僕がただの17歳の子どもだってあなたに思われることが怖い。あなたが好きでどうしようもないだけで心臓が苦しくてたまらないのに、これ以上あなたとの距離がなくなってしまったら僕は死んでしまいそうで怖い」と。やっぱり馬鹿なのだコイツは。咄嗟に吹雪さんの言葉を思い出したあたしは、自然と手が伸びて、エドのネクタイを引っ張って、ぎりぎりまで顔と顔を近付けた。 「じゃあ死んじゃえば?」 吐き捨てるように呟いて、薄い唇にかぶり付く。抵抗どころか反応すらしないエドに対して、あたしは満足して良いのかどうか判らなかった。 「あんたが馬鹿だってことは、とっくに皆知ってる」 「馬鹿…ですか」 「そんなどうしょうもない馬鹿を好きになっちゃったあたしはどうすれば良いのよ」 この救いようのない馬鹿がいつの間にか中心となってしまったあたしの生活は、あんたに拒絶されたら当分成り立たなくなってしまう。卒業して縁が切れてしまったらしばらくは日々を漫然と過ごすしかなくなってしまうだろう。想像したらエドの顔を見ていられなくなって、不自然にならないようにおもむろにアイスティーを口に含んだ。するとエドはいつもの調子であたしの名前の名前を呼んだ。 「どんな僕でも好きでいてくれますか?」 「うん」 「すごく我が儘でも?」 「今だって充分子どもでしょ?」 「あまり会いに来られなくても?」 「絶対帰ってきてくれるなら」 眉尻を下げたエドの頭を撫でると、安心しきったように微笑んだ。可愛くてこっちまで笑顔になる。幸せってこういうことね、と囁くと、エドは頭の上にあるあたしの手をそっと下ろして、手の甲に唇を押し当てた。子どもだと思って侮っていたせいで、大人びた仕草にどきどきした。 「あなたは僕がもっと幸せにします。だから僕が卒業して真っ先に迎えに行くまで、待ってて下さい」 キスしたあたしの手を固く引き締まった両手で包み込んで、エドは瞼を伏せる。その祈るような、縋るような仕草が太陽の下でとても美しく見えて、あたしは瞬きすら惜しんで自分の目に焼き付けた。このまま時間が止まったような錯覚に陥っているのも良かったが、エドの懇望に応えなければならない。意を決して薄い瞼の上に音を立ててキスしてみたら急に恥ずかしさが込み上げてきたので、約束よ、と強く言いつけて顔を反らした。 |
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