俺がに対して好意を抱き始めたのはいつだっただろうか。俺がこの学園を卒業する前からかもしれないし、彼女が中等部に在籍していた頃からかもしれない。今となっては明確に判断するには記憶があやふやすぎる。はっきりと覚えているのは、いつの間にか彼女の姿が視界に納まることが当然となっていたということだ。きっかけすら分からない。俺が在学中に彼女と言葉を交わしたのは、卒業式後に運良く一人でいるのを見かけて話し掛けたのが最初で最後だった。赤くなった左頬を押さえて「彼氏と別れたとこ」と言ったに俺が何を話したのか仔細は最早忘れた。彼女は大抵男子生徒と付き合っていたし、その相手がよく変わっていることもとっくに知っていた。が当時の一年生の中ではやけに大人びて見えたのは、毎日しっかりと化粧をしていたからだけではないだろう。そして、後に彼女に恋人ができにくくなった原因とも言えるのだが、ソリッドビジョンによる衝撃を受ける人間を見て彼女が満足そうに笑うことを、見ている内に俺は悟っていた。 「セイウチと大工の話、知ってる?」 「いや、……ああ、不思議の国のアリスか」 「へー意外。亮がアリスの内容を知ってるとは思わなかった」 「幼かった頃、アニメを見た」 病室というのはどうしてこうも白いのだろう。一人でいると虚無感に支配された独房と化し、誰かといると世間と隔離された空間が出来上がる。真っ白な視界に、自分の一年半が浮かんでは消える。その中でも矢張りの姿を必死に探そうとする自分は哀れだ。それでも仕方がないのだ。現実の、今俺の傍で、翔が剥いてくれた林檎を齧る彼女は、俺を好きにはならないと諦めているのだから。ベッドで二人並んで座るというのは何処か性的な雰囲気があるが、俺は流されることはなかった。彼女の口元から零れる、一定のリズムで林檎を齧る音や、ほのかに香る化粧品の匂いや、軽く伏せられた目蓋の上がいつもと違う色であることを記憶に留めようとすることに必死になれば、そんなものは二の次になる。 は時々見舞いにやって来る。毎回、何も持ってきていないことを詫びるが、この学園で見舞いの品を用意するのも困難だろう。翔がよく食堂で果物を貰ってきてくれる上、彼女もそのことを分かっているから必要以上の食料品を持ってくるべきではないと考えているのだろうし、俺も何もほしいとは思っていない。彼女が俺のために、わざわざ女子寮から遠いこの病室に来てくれているのだ。これ以上何を求める必要があるというのだろう。 「セイウチが牡蠣の子供を食べちゃうシーンあるでしょ?」 「大工を出し抜くんだったな」 「そうそう、幼稚園の年長だったか小学校の低学年だったかに見てね、すごくぞくぞくした」 「牡蠣が食べられることにか?」 「ううん、牡蠣が怯えてること。あたしって多分、それがきっかけで目覚めちゃったんだと思う」 「加虐趣味に」 「うん」 フォークに刺さった林檎がなくなり、は唇に付いた果汁を赤い舌で舐め取る。薔薇色に塗られた唇との色彩に眩暈がした。今にも自分の指先が彼女のくるくると巻かれた毛先に触れそうになるが、必死に思い止まって、膝の上で拳を作る。 「それでさ、亮はどうしてあたしなんか好きなの?」 「随分と唐突だな」 「今、すごく好きな人がいるの」 「そうか」 「あたしのこと、好きになってくれない人」 「それは…お前を好きな俺と同じだと言いたいのか?」 「別にそういうわけじゃないけどさ」 「好きだと伝えたのか?」 「言える訳ないって。友達ですらいられなくなっちゃう」 それならば、俺との関係は何なのだろう。愛を謳えば友ではなくなり、受容されなければ恋人にもなれない。俺と彼女を繋ぐのは、俺の一方的な、身も焦がれそうな程狂おしいまでの愛情だけだ。吹雪にそう伝えた所で頭が病んでいるとしか言われないし、翔にはそんな屈折した想いを打ち明けようとも思わない。只俺はが好きなだけなのだ。 「あたし、亮が世界で二番目に好き」 悶々と隣で視線を彷徨わせていた彼女が急に俺を見上げ、そっけなく呟いた言葉を一拍置いて理解し終えた時、心臓の音が止まったかのような錯覚が起こった。序数など関係ない。俺をほんの少しだけでも好いて愛してくれるのならば、それだけで俺は幸せになれるのだ。混乱状態に陥っていた呼吸すら上手くできずにいる俺の表情を伺っているを強く抱きすくめた。彼女が握っていたフォークが落ちて床で立った音がやけに大きく響く。驚いてはいるようだが抵抗しない所を見ると、俺は当分この状態でいても良い様だ。 「吹雪が言っていたんだが」 「うん」 「結婚は二番目に好きな相手とするのが良いそうだ」 「よく言われるね、一番じゃその内冷めるってことでしょ?だけどさ、あんたにとってあたしって二番手なの?自惚れてる訳じゃないんだけど、あんたあたしのこと相当好きでしょ」 「二番目も何も、お前だけだ」 「あたしが欲張りってこと?」 「その欲深さだって愛しいんだ」 「ばっかみたい。そんな恥ずかしいこと言われたって反応に困るし」 「事実だ。が俺を好いてくれても嫌っていても、俺はが好きなんだ。愛している。それだけだろう?」 「ああもう!あんた更に酷くなってる!」 「酷い?」 「自重しなくなったってこと!」 呆れ果てたとでも言いたげに大きく溜息を吐いて、は俺の腕から身を捩って抜け出した。急に押し寄せた喪失感を振り払い、腕に残る愛おしさを噛み締めていると、小さな両手が俺の無骨な掌を取り上げ、胸の前に寄せた。縋るような仕草を見て、俺は何が彼女を苦しめているのか汲み取ろうと試みたが、それよりも彼女の不安や憂いに触れられたことを喜ばしく思っていた。 「ね、あたしだけを死ぬまで愛してくれる?」 「お前がそれを望むなら」 プロポーズのようだと薄く微笑めば、はむっとしたようにぶっきらぼうに数年経ったらやり直しを求めると告げた。当然だ、俺がを守れるようになるまで、まだ当分お預けだ。だがしかし、誓いの口付けだけなら今でも許されるだろう。そう自己完結させて、俺は彼女の顎に指を掛けた。頬に触れた手が叩き落とされることはなかった。 |
(100620)