亮は優しい。あたしが押す車椅子に掛けた彼は、厳しさで埋もれてはいるけれど、いつだって誰にでも優しい。丸藤弟にも、明日香にも、遊城にも。だけど中でも、あたしには一等優しい。というか甘い。甘やかされている。彼はあたしを叱らない。それがむず痒くもあり、不安にもなる。このままじゃ絶対に自分は駄目になってしまいそうだと思ってしまうのだ。二番目に好きだとは言ったが、本当はあたしは亮のことをそれ相応に好きだ。優先順位だって本当は口から出任せで、事実としてあたしへの揺るがない愛情を持ってくれてる亮に恋をしている。多分大分惚れ込んでる。自分でも性格は悪いと思うけど、亮はあたしの横にいるのが当然なのだと言い切れる。生徒だった頃からモテている彼を振り回しているせいで、女子寮で敵を作ってしまったこともあるが、それは今さほど問題ではない。現在あたしが考えなきゃいけないのはユベルについてだ。彼なのか彼女なのかよく分からないけど、あいつはいつだって遊城しか見てなくて、そんな所もひっくるめて大好きなのだけれど、そして春が来たら会えなくなってしまう。それがどんな種類なのか自分でもよく分からないけど、ユベルを愛することが出来る期間が限られているから、あたしは亮に甘えていた。それなのに亮ときたら、そんな横暴にすら幸せを感じるものだから、あたしは辟易してしまう。亮の一番の欠点は被虐趣味であることだ。これだけはどうしても相容れない。
「俺は此処で待っている」
「駄目。万丈目の部屋なら空調も整ってるでしょ」
「いや、少し夜風に当たりたい」
「……ん」
「どうした?」
「ちょっとだけ怖い。嫌われたらどうしようって」
年季の入ったレッド寮の階段の側で立ち止まると、亮は振り返ってあたしを見上げた。そして手招きする。あたしはそれに従って、亮の横で少し屈んだ。吐く息の白さが更なる寒気を催す中、彼は手袋を膝に放り捨てる。
「大丈夫だ」
低い位置から腕を伸ばして、亮はあたしの頭を優しく撫でた。この大きな手で頭を撫でられると、いつも少しだけ安心感が湧いてくる。亮が全て受け止めてくれる、だからあたしは結果はどうあれ勇気を振り絞らなきゃならない。彼の膝掛けとマフラーの位置を直して、手袋越しの両手で彼の冷たくなった頬を包んだ。
「行ってくる」
こつん、と額同士をぶつけて、思い切って階段を駆け上がった。遊城の部屋は二回だと亮に既に教わっていたが、他に誰もいないのなら万丈目の部屋に住めば良いのにと思う。そっちの方が広そうだし綺麗だろう。
「遊城十代、いる?」
建て付けの悪そうなドアをノックしてから呼び掛けると、少し間が空いてからドアが開いた。何度か見たことのある赤い制服は遊城しか今や着る人がいない。その遊城はきょとんとしていて、後ろで浮いているユベルも同じ表情をしているせいで、吹き出しそうになった。
「お前、カイザーの彼女?」
「知ってんの?」
「翔が言ってた」
「ああそういうこと」
「で?カイザーの彼女が何か用なのか?」
不審そうにあたしを眺める遊城はきっと、あたしに少しばかり恨まれてることなんて知らないんだろう。厄介事にばかり巻き込まれているせいで、あたしを新しい疫病神か何かだと見なしているのかもしれない。しかしあたしが用事があるのはユベルにだけで、今一状況を理解できていない様子のユベルを見てから、あくまで笑顔で友好的に依頼した。
「ユベルと話したいんだけど、ちょっとの間貸してくれない?」
はあ?と眉尻を吊り上げたのは遊城ではなく、ユベル本人だった。馬鹿じゃないのとでも言いたげだ。違う、あんたがどうしようもない馬鹿だからわざわざ振られに来たんだよ。
「ユベル?」
「ユベル」
「見えるのか?」
「見えてるよ」と返したのはあたしじゃなくユベルだ。ふよふよとわたしの傍まで移動してきて、後ろからわたしの両肩に手を置いた。中に入れということらしい。わたしがごちゃごちゃしているのに何処か殺風景な、亮曰く味のある部屋に踏み込むと、遊城は肩をすくめて出て行った。
「下に亮がいるから、話し相手になってあげてよ」
遊城は了解したと言うように片手を上げた。ドアが閉まると、少しだけ沈黙が訪れて、気まずさを誤魔化すためにわたしは座る場所を探した。周りを見渡して、結局誰も使っていなさそうな二段ベッドの下の段の縁に腰掛けた。
「どういう心境の変化?」
「あんたが見えてるってバラしたこと?」
嫌味ったらしく大きく溜め息を吐いて、眉間に皺を寄せてユベルはあたしの顔を覗き込んだ。褐色と緑のオッドアイが真っ直ぐあたしの目を見ていて、心臓がばくばくと暴れ出しそうだった。
「それもだけど、ドMは嫌だとか言ってたじゃないか」
こっちの気を知ってか知らずか、多分知らないのだろうけど、腕を組んで鼻で笑うように彼の話を始め出す。本当はあまり、ユベルと亮の話をしたくはない。宙ぶらりんな自分が浮き彫りになるのが嫌だし、これで祝福されでもしたら立ち直れない気がするからだ。
「うん、やっぱり苛々する。ムカついて脛蹴り飛ばしたらなんかちょっと嬉しそうだったし」
「それでよく付き合えるね」
「本当にね」
あたしが小さく笑うと、ユベルは呆れたように顔をしかめた。納得がいかないのだろう。あたしには他に、それが誰か知らなくても、好きな人がいるのに、結局は亮と恋人らしく過ごしている。遊城しか見てこなかったユベルには理解出来ないのかもしれない。少しして、じっくり言葉を選んでいたのであろう相手から、冷ややかな視線と馬鹿にしたような声音が突き刺さった。
「まさかとは思うけど、妥協したんじゃないだろうね」
「…妥協」
「だってそうだろう?」
そういう風に考えたことなかった、と正直に答えれば、残念なものを見るような目を向けられた。期待外れだとでも言いたげだが、あたしは生憎ユベルとは違う。真っ直ぐでも一途でもないし、自分の身だって可愛いし、時間に限りもある。いつまでも18歳のあたしで居られる訳もない。自分が精霊なら良かったとか、そんな考え方が無い物ねだりだって分かっているけど、やっぱりそうなりたかったと思ってしまう。
「こないだみたいに抱き締めてくんない?」
唐突に頼んだあたしを不審がる様子もなく、「良いよ」と小さく笑ってユベルは肩に手を回す。だがそれだけだった。前のようにあたしがしがみつけるように接近もしてくれなかったし、強く抱いてくれもしなかった。困惑して顔を見上げると、ユベルもユベルで眉尻を下げた不安そうな顔を見せている。
「すり抜けちゃう」
「え?」
「ほら、触れない」
あたしの二の腕を掴むように動いた手は、そのまま空気でも掴むように拳になり、あたしを貫通してしまった。どうして、何故という疑問よりも悲しさの方が早く押し寄せてきて、俯いて唇を噛んだ。
「大人になるってそういうことなんだろう?」
きっとユベルは肩を竦めたのだろう。会ってからまだ半年も経たないが、段々行動パターンが読めてきた。ただ淡々と呟いたこの一言が凄く腹立たしくて、涙も物悲しさも引っ込んでしまった。
「あたしがどれだけあんたのことで悩んできたか分かってもいない癖に!」
「はあ? 知らないねそんなこと!だって君は肝心な所で僕に相談もしないじゃないか!」
「あたしがいつあんたを蔑ろにしたって!?」
「僕の知らない内にあんな奴と付き合ってる!」
「あんな奴ってなによ!あんただって十代十代ってそんな話ばっかりじゃん!」
「僕は十代を愛してるんだから当然だろう!? 少なくとも僕は君にだけは洗いざらい全部話してきたって断言できるよ!」
「なにそれ」
「なのに君は僕に黙ってばっかりだ。僕は君のこと十代の次に好きなのに」
拗ねたように下を向くユベルを目にした時、漸く最後の一言が脳に行き届いた。
「馬鹿じゃないの!? あたしはあんたのこと一番好きなんだから!」
「…なんだって? じゃあどうしてあんな奴と付き合っているの?」
「それがよく分かんないからあんたと話しに来たんだけど」
結論として、あたしとユベルに湿っぽい大人しい会話は似合わなかったということだ。貶し合って腹の中ぶちまけるくらいの包み隠しのない関係でいられるから良いのだろう。腹括って来たって結局はこうなってしまう。まあそんなこと出来るのはこいつを相手にしてる時くらいのものだけれど。亮の前ではあたしは無意識の内に女の子らしく振る舞おうとしてしまうけど、ユベルの前でそんなに取り繕う必要は全くない。性別のせいかもしれないし、間柄の問題かもしれない。それだから好きなのだ、きっと。
「馬鹿はお互い様だね。どうしようもなく子供だし、意地っ張りで、行動を誤ってばかりだ」
「本当にね」
目の前が滲む。静かに涙を流すあたしを前に、ユベルは大人ぶって穏やかに笑う。それなのに手は伸ばそうか引っ込めようかと中途半端な位置に止まっていて、その仕草がとても愛おしかった。手の甲で涙を拭って、顔を近付けて、そうしてキスの真似事をした。触れることが出来ないために、唇を近付けるだけしか出来ないけど、曖昧で不可思議な関係のあたし達にはお誂え向きだ。愛情の証であり、友情の印であり、別れであり、再会の約束だ。指切りも出来ないし、髪を撫でることも出来ないのはすごく淋しいが、こればっかりは仕方がない。
「遊城の体乗っ取ってでも会いに来てよ」
「僕にそんなこと出来る訳ないじゃないか。まあ、しつこくに会いたいって言い続けるくらいならしてあげなくもないけど」
「ツンデレ?」
「馬鹿じゃないの」
「知ってる!」

「憑き物が落ちたような顔をしている」
背後にユベルを引き連れて軽快に階段を駆け下りると、亮はほっとしたとでも言いたげに目を細めた。その車椅子を遊城は少し笑いながら押す。
「お待たせ」
「話はついたのか?」
「うん」
にやつくあたしに手招きして、亮は膝掛けを畳んで、するりと車椅子から降りた。意図が理解出来ずに顔を見上げながら、一歩ずつ地面を踏みしめた。レッド寮周辺は舗装されてないため、歩く度にヒールが土にめり込む感触がした。
「亮?」
「俺だって嫉妬もするし、独占欲がない訳じゃない」
そう言って正面から肩と腰に腕を回して、強くあたしを引き寄せた。驚きで一瞬体が強張ったが、亮の言葉を理解すると、脱力して頭を肩に押し付けた。亮はあたしの我が侭に我慢してくれていたのだ。ユベルが鼻で笑うのが聞こえる。あたしと亮のどっちを馬鹿にしてるんだろう、両方かもしれない。
「二番目で良いなんて嘘ばっかり」
「最初はそうだった」
「今は?」
「そうだな、お前にとって世界で一番大切な人間になりたいと思ってる」
プロポーズみたいだと呟くと、それっきり彼は黙りこくってしまった。そういえば、前に病室で同じことを亮が言っていた気がする。あの時は今よりも身勝手で、これからずっと亮と生きていこうなんて考えもしなかったけれど。そうして一呼吸置いてから、あたしから会話を再開させた。そろそろ言わなきゃいけなかったことだ。
「あのね、亮」
「なんだ?」
「あたしはあんたたちのプロリーグをずっと手伝ってくつもり。だから卒業後はデュエル以外の勉強をするために大学行く。推薦だけど」
亮はあたしをぎゅうぎゅう抱き竦めていた腕をだらりと放し、大きな両手であたしの肩を掴んだ。指に力が入っていることに顔をしかめると、はっとしたように指を緩めた。そんなに驚くことだとは思えないのだけど。
「本当か?」
「嘘吐いてどうすんの」
「楽な暮らしをさせてあげられないかもしれない。苦労も掛けるだろう」
「だと思う」
「それでも良いのか?」
「しっつこいなあ。亮とならどうにでもなると思ってるから決めたのよ」
「プロポーズみたいだ」と笑った彼に、自分が先程同じことを言ったと指摘し、数年後のやり直しを求めると、彼は穏やかに目を細めた。その仕草に心臓が大きく脈打った。間違えようもなく、あたしは亮が好きなのだ。それは多分恐らくユベルに対する愛しさとは違うけど、彼にしか抱けない感情だ。絶対に言ってやらないけど。
「ふん、君が慎ましく生活するなんて想像出来ないね」
亮の背後から顔を出したユベルが意地悪くにやにや笑う。ユベルは亮が気に食わないのだろう。そして、亮と一緒に幸せになろうとするあたしを理解したくない。だってあたしも遊城が気に入らないし、ユベルが遊城に心酔してることだってあまり理解できない。だけどまあ。
「だってそれが愛でしょ?」
不審そうにあたしの視線を辿って振り返った亮を笑い飛ばして、ユベルは消えた。遊城の中に帰ったのかもしれない。きっとまた会えるだろう。この島の何処かか、若しくはもっと広い世界の何処かで。
「ユベルの奴拗ねてるぜ」
「泣かせたら承知しないよ」
亮を車椅子に座らせて後ろを歩くあたしに呟いた遊城十代を振り向いて、あたしは人差し指と中指を伸ばした。耳に馴染んだ笑い声が聞こえた気がした。
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