水が怖い。といっても雨も飲み水も怖くはない。海だとか、プールだとか、多くの水が溜まっている場所が怖い。一時は湯船にすら恐怖を感じていた程だ。だからわたしは、入学試験に合格したものの、このデュエルアカデミアに入学することをぎりぎりまで渋っていた。海に囲まれた孤島でわたしの精神が耐え得るのか不安で不安で仕方がなかったのだ。本土に帰るには船を使うしかない。つまり海を行き来するのだ。当時はそれが怖くて怖くて、聞きつけた鮫島校長がヘリコプターを出すとわたしに連絡してくれるまで、受験したことにすら本気で後悔していた。

デュエルは好きだ。だけど、デュエルだけを勉強したかった訳ではないし、普通に高校を受験しても良いと考えていた。それでも、母親に強く推されて、際どい短さのスカートを毎日穿くことになってしまった。母だって娘にデュエルを学ばせたかったという訳でもなかっただろう。ただ、幼なじみの遊城さんちの十代くんが行くなら一緒に行けば良いじゃないの、なんて軽い気持ちだったに違いない。それに、わたしの軽度の水恐怖症も真剣に受け取ってはくれなかった。まあ実際、原因を口にした所で誰も信じてくれないと思ったわたしのせいでもあるのだけれど。

遊城十代という幼なじみがいる。デュエルが強くて、天真爛漫で、元気が良くて、頭が悪いということもないのに成績は下から数える方が早いけど、皆に可愛がられて、表情がころころ変わるけど笑顔が多い、そんな奴。母親同士仲が良いし、わたしたちが幼稚園からの付き合いだということもあって、地元の中学校に一緒に進学してからも、周囲に付き合ってるだとか言われても気にしないくらい自然と近くにいた。
しかしあまりにも近すぎたのだ。二人共一人っこで、わたしにとっては弟みたいなものだった。身長を抜かれたのも高校生になってからだったし、手の掛かる男の子だったのもある。遊城十代は子犬みたいな幼なじみ、だから牙を剥くなんて考えたこともなかった。

中学三年生の夏、七月の始め、わたしたちは夜中に学校のプールに忍び込んだ。テスト勉強の合間に休憩がてら涼みに行くことを十代が提案し、わたしは渋々ながら頷いた。十代は言い出したら聞かないし、一人で行かせようにも絶対に無理にでもわたしを引っ張っていくことが予想できたからだ。
いつもは歩いてゆく道を十代にしがみついて自転車で行くことにどきどきした。誰もいないことを慎重に確認しながらフェンスの隙間に潜り込み、プールの南京錠をこじ開けた。大人ぶって十代に冷ややかな目を向けていたけど、本当は楽しかったのだ。大人になって、あんな子供みたいなことが出来なくなることを恐れてさえいた。十代と膝下までプールに浸かって、プールサイドでたわいのない話やデュエルの話をする時間がいつまでも終わらない錯覚すらあった。
つまり、わたしは無防備だった。

冷たい水に叩きつけられる感覚と水飛沫を覚えている。口と鼻に押し寄せる塩素入りの水の匂いも、重みで沈んでゆく様子も、未だに記憶から離れない。小学生の頃の着衣水泳以来の感覚だった。必死に足を底に着け、縁に捕まった。そして、何をするのだと糾弾しようとして十代を見上げて、わたしは口を噤む。夜の暗さの中で、金色の目だけが爛々と光っていたからだ。身体の芯から凍ってゆくような冷たさだった。プールの水が凍っていくんじゃないかと真面目に錯覚した程だ。このまま意識を失ってはいけないと必死で、目の前の金目に君は誰だと訊こうとしたのに、わたしの口から発したのは十代の名前だけだった。その言葉に陰った金色を最後に、わたしの記憶は途切れた。
他に覚えていることと言えば、布団にくるまったまま母親から説教を受けるわたしを不安げに見つめる、茶色い目の十代がしゅんとしていたことくらいだ。



そして今、岬で足を竦ませるわたしの横に立っている十代の目は、三年と半年振りの金色だ。レッド寮の前にわたしを呼び出して、振り返りもせずにわたしの手首を引っ張ってきたのは、わたしに彼だと気付かせないためだったのだろう。

「君は誰?」

漸く口に出来た質問にほっとした。わたしは彼を少し恐れているけど、多分恨んではいない。だって、わたしの恐怖症の原因だというのに、隣にいても嫌な感情が全く湧いて来ず、寧ろ凪のように穏やかなのだから。

「我が名は覇王」

十代の中からずっとわたしを見ていたのだと彼は続けた。そうして沈黙が訪れる。返す言葉を考え倦ねていたわたしは黙りを貫くしかない。しかしそれでも彼は気分を害したようには傍目には見えず、夜の暗闇のせいで地平線の見えない空と海の境目の辺りをただ表情もなく見つめていた。その彼を、わたしは上から下まで眺めて、今度は下から上へと視線を持っていく。そんなわたしに気付いたのか、彼はゆっくりと首を回した。

「綺麗な目だね」

少し笑ったわたしをきょとんと見ている様子は、異世界から帰ってきた時よりも前の、少し幼かった十代に似ていた。だけど、彼は十代ではないのだろう。本質は十代なのかもしれない。それでもあの頃の遊城十代とは異なっている。ゆっくりと一歩分横に近寄って、そっと手を繋いだ。指先が冷たいけど、昔から馴染みのある手だ。

「また突き落とされるとは思わないのか?」
「うん」
「何故だ?」
「君はわたしを嫌ってはいないと思うから」

ぎゅう、と長い指先に力がこもった。わたしは驚いて手元を伺おうとしたが、急に腕を引っ張られて、彼と向き合う形になった。彼は身長が急に伸びる前の十代によく似ているためか、顔の高さが今の十代よりも近くて、わたしは上を向かずとも彼の顔を見ていられる。それを抜きにしても、彼の目に宿った悲しさや寂しさを前にしたために、わたしは顔をそらすことが出来なくなった。鈍く光っている金属質の虹彩や、繋いだ手から、彼の苦しさが伝わってくるようで、わたしは切なくなった。

「俺に気付いてほしかった」
「ごめんね」
「これまで自分を形作ることが出来ずに、随分悔しい思いをした」
「うん」
「お前はあの世界には来なかった。やっと俺をお前の前に現せられると思っていたのに」

会話が噛み合っていないもどかしさなど彼には関係がないようで、淡々と不満をこぼし続けた。多分、彼はわたしからの相槌を必要としている訳ではないのだろう。そう勝手に納得し、黙って彼の言葉の続きを待つ。

「やっと会えた」

声が震えていた。きっとこれが十代ならば満面の笑みを浮かべていたのだろうが、目の前の彼のそんな表情は想像出来なかった。それでも、ただ少しだけ口の両端が上がっているだけで、彼が喜んでいるのが分かる。

、十代と俺の

冷たい手がわたしの頬を撫でたために、わたしの体は小さく跳ねた。そんなことはお構いなしに、細い手はわたしの輪郭を辿る。愛おしさと得体の知れない恐怖が胸に押し寄せて、視界が滲み、小さく身を震わせた。なんとか凍り付きそうな心臓を奮い立たせて、漸く平常通り息を吐く。そんなわたしの様子を丸い目で眺めていた彼は、鼻先で笑って繋いだ手を引く。

「今度は二人で落ちてみるか」
「え?」
「冗談だ。そんなことをしても俺はお前と二人で何処かへ行くことはできない」
「どういうこと?」
「心中など出来ん。俺は十代の心の闇に過ぎない。死ぬことが出来るのはお前だけだ」
「わたしは勿論死ぬつもりはないけど、君は死のうと思っても死ねないのね?」
「ああ」

ひっそりと瞼を落とした彼は、十代には出来そうになかった物憂げな表情をしていて、わたしは引き寄せられるかのように、無意識の内にその目尻へと指を伸ばしていた。やはり少し肌が冷たいが、きっと夜風のせいではない。

「十代はお前が好きだ」

唐突に彼は口を開く。しかも突拍子もないようで、よくよく考えてみれば自然な流れに従った内容であったために、わたしは瞬きを繰り返してしまった。そこではっとして、彼のこめかみから指を退けようとしたが、それに気が付いた彼の手に上から抑え付けられてしまった。彼の頬に掌が触れ、視線をさまよわせたわたしの様子を、彼は黒猫のような目を細めて観察する。じっくり見られるというのもなんだか居心地が悪かったが、口を挟まずに彼の言葉の続きを待った。

「お前でなくてはならない」
「駄目だよ」
「何故だ? あの黒い男をお前が好きだからか?」
「ううん、十代はきっとわたしを置いてっちゃうから。多分一人でずっと遠くまで行っちゃうと思うの。違うかな?」

わたしはもう気付いていた。十代はわたしたちでは到底手の届かない存在となってしまっていて、十代自身、そのためにわたしたちと距離を置こうとしていることを。ヨハンくんたち留学生が帰る直前から、異世界から一人遅れて帰ってきた頃から、十代は一人だけ大人になった。そう思ってしまうのは、自分がまだ子供だからであるし、成長する見込みもなければ、この島から巣立つ勇気もないことを知っているからだ。
十代は昔からわたしには惜しみなく愛情を注いでくれていると、わたしは思い込みでなく、そう信じている。それは友達に対するものであり、兄弟のような親しさの間のものであり、多分、恋愛としてのものでもあった。わたしだって同じだ。わたしの人生において、大半の時間が十代に注ぎ込まれてきたに違いない。だけど、わたしは十代に恋はするつもりはなかった。ずっと保ってきた心地良い距離を壊すのが怖かった。近付きすぎて、離れるしかなくなるのは絶対に嫌だった。
それに、わたしには一年生の頃から憧れている人がいたのだ。同じ決闘馬鹿だけど、必死に自力で上まで上り詰めようとする姿勢は彼にしか見出せなかったし、口うるさく文句を付けながらも時々照れながら褒めてくれる彼が好きだった。彼が天上院さんを好きでも構わなかった。きっと、わたしは恋する自分に満足していたのだ。彼に、万丈目くんに片想いするだけで、楽しく過ごせてきた。そんなわたしを十代が気に入る筈もなかったけれど、なんでもかんでも十代の言いなりになるつもりも毛頭なく、何度も喧嘩した。丸藤くんに迷惑もかけた。しかしながら、今考えてみれば、嫌ではなかった。そりゃあ、その時は苛々したけど、いつも拗ねて頬を膨らませたりそっぽを向いたりする十代にわたしが折れて、結局決闘ばかりしていたのだ。
十代のことを好きな人は沢山いたんじゃないかと思う。というよりも、きっと現在進行形でいるんだと思う。わたしよりずっと可愛い子もいれば、強い子だって、綺麗な子だって、性格の良い子だっているのに、十代は見向きもしなかった。決闘馬鹿だからだって、みんなそう納得しようとしていたのだろう。そうやって諦めていく女の子たちや、全くと言っていい程関心を持たない十代を見て、わたしはずっと安心していた。自分でもこれが我が侭な独占欲だと知っているけれど。そういえば、丸藤くんのお兄さんの彼女は、十代の背中に熱視線を送っているのに、正面からは冷めきった表情しか向けなかった。あれは何だったのだろうか。未だによく分からない。あの子には一方的に嫌われているみたいだから、聞くにも聞けないままもどかしく思っている。嫌われるようなことをした覚えもないし、もしかして十代が好きなのだろうか。いや、丸藤くんのお兄さんが彼氏な訳だし、お友達が十代に振られたとかそういうことなのかもしれない。
こうして、ゆっくりと頭の中でパズルのピースが嵌ってゆく。ずっとずっと、十代にあまり会えなくなってから、彼のことばかりわたしは考えていた。つまり、わたしは自分で思っていた以上に、遊城十代が大切で、愛おしくて、好きで仕方がないのだ。最早恋とは呼べない程に。

「君は恐らく十代の一部なんだよね? そんな君に言うのはちょっと気が引けるけど、わたし、本当は十代と離れ離れになんてなりたくない。昔みたいに、ずっと十代の隣にいたい」

繋いだ手を握り締めて、わたしは真っ直ぐに彼の金目を覗き込んだ。吸い込まれるような瞳は、やはり十代のものだ。わたしが出来る限り優しく微笑むと、不貞腐れたように彼は目線を背けた。ややあって、彼は不満そうに低い声で呟く。

「十代だけなのか?」
「君もひっくるめてだよ、覇王」
「そうか。それなら良い」

柔らかな表情で微かに笑った彼は、わたしと手を繋いだまま、もう片方の腕をわたしの背に回した。突然引き寄せられて身を固くしたわたしの肩に、彼は顔を埋める。栗色の髪が首筋に触れて少しくすぐったい。そういえば、ずっと前に十代と喧嘩した時も、いや、今十代のことを思い出すのはよそう。ゆっくりと目を閉じて、大人しくじゃれ付く彼の背を撫でた。見慣れた赤いジャケットの生地の感触だけが掌を通して伝わった。
多分恐らく、手の届かないところにいるのは十代だけじゃなくて、こうしてずっと近くにいる彼もそうなのだろう。手を離したら次の瞬間には消えてしまいそうだ。そうしてわたしは取り残され続けて、終いには一人ぼっちだ。だけど、今のわたしが彼らに何を出来るのだろう。全く思い浮かばない。こうして手を繋いで、背中をさすってあげられるくらいだ。重苦しい愛情を抱えていることしかわたしには出来そうにない。そしてその内、それにすら耐えられなくなって、わたしは潰れてしまうだろう。
涙を浮かべる余地すらない程にぐるぐると回り続ける思考を止めたのは、彼の穏やかな囁きだった。

「お前が少しでも想ってくれるのならば、こうして実体化した意味があった」

重い瞼を持ち上げると、顔をあげた彼の金目が間近にあった。もう少しで鼻がぶつかってしまいそうで、慌てて身を引こうとすると、それに付いてくるように彼は顔を更に近付けてきた。一瞬だけ、唇の端に柔らかい感触。果たしてファーストキスと呼べるのかもよく分からなかったが、相手が彼、覇王でしかないことはよく理解できた。
十代がわたしが好きだからではなく、彼は覇王として、一つの人格として、無償の愛をわたしに向けてくれている。あの夏の出来事も、方法に問題はあれど、きっとわたしへの愛情を形としてあらわすためのものだったのだろう。今更になってやっと把握したわたしはどうしようもない大馬鹿者だ。

「あのね、覇王」
「もう時間だ。十代の中で待っている」
「覇王?」

わたしは何を伝えようとしたのだろう。分からない。だって、目の前で彼は霧散してしまったから。手の中には何もなく、わたしの身を包むのは冷たい夜風だけだった。残ったのは虚無感だけである。何かを叫びたいのに言葉が見付からない。覇王を探すにも、何処を探すべきか知らない。彼はわたしの目の前で、跡形もなく消えてしまったのだ。まるで、元から彼がわたしの見ていた幻だったかのように。

居ても立ってもいられなくなり、わたしは砂浜へと駆け出した。こんな時間には誰もいないし、月明かりしか頼りになるものはなかったが、そんなことすらどうでも良かった。走って、砂を踏みしめて、波打ち際にゆっくりと足を踏み入れて、海水に一歩一歩沈んでゆく。もう何も怖くなかった。あれだけわたしを苛んでいた恐怖心は忽然と姿を消していた。
水面に映った満月を眺めながら、わたしは静かに泣いた。彼を想って、自らを想って、十代を想って。





(101226/101227加筆修正)