「ケーキ食べたい。タルトが良いなあ」とぼやいた覚えがある。四日前だったと思う。彼がいたから、日にちだけは鮮明に記憶されているのだ。
一人で喫茶店に行き、買ったばかりの文庫本に目を通していた。時々、紅茶をちびちびと口にしながら。そうして二十分程過ごしていたら、扉をノックする様にテーブルを二度、軽く叩く音がした。目線を上げると、周囲から浮いている位整えられた服を着こなし、上品に此れまた整った顔に穏やかな微笑みを浮かべる青年がいた。彼だった。音を立てない様に静かに引かれた椅子に腰掛け、表情を崩さない侭、わたしの顔を覗き込んでいた。しかし、彼の存在が、あまりにも場違いな気がしたので、勿体振るように時間をかけて喉を潤していた紅茶を飲み干して、会計をして、直ぐに店を出た。
彼は何も手にしていなかったが、買ったものを家に届けさせるのはいつもの事だったので、大方予想はついた。硝子張りの店内に、わたしの姿を見付けたのだろう。
愛車のメルセデス・ベンツが駐車してある立体駐車場まで歩く途中に、ケーキ屋があった。其処を通り過ぎた時に、「ケーキ食べたい。タルトが良いなあ」と言ってしまったのだろう。



その四日後、つまり今日だ。冷凍食品を温めて昼食にしようという、手抜きで栄養も何も考えていない食事を用意しようと決めた数秒後、インターホンが鳴った。わたしは1LKで家賃は安いがそれなりに綺麗なアパートに住んでいる。実家から遠くもないが、自由に生活するのに便利なのだ。
扉の向こうには彼が立っていた。白い箱を携えている。
〈こんにちは〉と、彼の唇が形作る。
「こんにちは、どうしたの?」
彼は白い箱をわたしに手渡す。わたしは両手でそれを抱える。少し重みがある。
〈食べたいと言っていたから作りました〉
彼のほっそりした綺麗な十本の指が伝える。かれこれ五年以上、彼と出会ってから過ぎているが、彼の指の動かし方は、正確にメッセージを伝える。でも、その意味を理解しかねて、首を傾けた。まあ良い、開けてみれば良いのだ。
「あまり片付いてないけど、良かったら上がって」
〈ありがとう〉
彼は口に出さずに言う。



箱の中にはタルトがワンホール入っていた。こんがりと焼けた生地の中に敷かれたスポンジの上のカスタードクリームに苺が並べてある。もしかしなくても、彼が作ってくれたのだろう。
「ありがとう!美味しそう」
〈どういたしまして〉
彼は其れはもう綺麗に微笑んだ。とても優しくて暖かい微笑みだ。顔の造作が美しくたって、彼の様に微笑む事が出来るとは限らない。彼のお母さんは良い息子を持ったなあ、としみじみとしていたら、不思議そうな目で見られた。
「ね、食べて良い?二人でお昼にしよう」
誤魔化す様に、背を向けてキッチンへ向かう。包丁を一丁と白い皿を二枚。其処でやっと、四日前の事を思い出した。本当、優しすぎる。わたしが駄目になるくらい甘いのだ。



「美味しい!なんでこんなに上手に作れるの!?」
〈本を見たから〉
本を見ただけでこんなに作れるのかという程、彼の作ったケーキは美味しかった。タルトの生地はさくさくしていて、クリームは甘過ぎず、果物とバランスが取れている。彼の料理は何でも美味しい。外食するより美味しい。そして盛り付けや見た目も良い。こんな旦那さんがいたら、わたし料理しなくなるよなあ………なんて、嫁に貰ってくれる筈がない。
〈喜んで貰えて嬉しいです。また何か作りますね〉
「本当!?」
嬉々として頷かれた。ああ、和むなあ、此の人と居ると。『女の子は甘いお菓子で出来てる』なんて何処かで聞いた覚えがあるけど、其れ以上に甘いしふわふわしてると思う。抱き付いたら、細いのにしっかりしてた覚えがあるけど。大分前の話。
〈此の後、暇ですか?〉
「え、うん。何もないけど…」
〈何処かへ出掛けましょう。其れから、母が今度貴女に会いたがっていました〉 直ぐに別室で着替える。下手な格好は出来ない。



彼の家は、わたしの実家の向かい隣にある。どちらの家も二階建てで、しかし相違点を挙げれば、大きさも佇まいも、他に幾つも見付かる。一目見れば。唯一、其れ程違わないのは、庭くらいのものかもしれない。母の趣味がガーデニングだからだ。
「着いた」
〈此処で良いのですか?〉
「此処が良いんだよ。ピアノが聴きたくて」
〈ああ、其れで〉
彼の家に行きたい、と言った時、目的地の住人は目を見張っていた。買い物にでも行くつもりだったのだろう。彼のお母さんの『今度』が今日になったって、もしかしたら先方は都合が悪いかもしれないけれど、わたしは構わないのだ。
彼を知ったのは、十歳を幾つか過ぎた、多分小学生の頃だった。実際に顔を見たのは中学生くらいだったと思う。最初は、音大生でも住んでいるのかと思っていた。小学生ながら、彼の弾くピアノは近所の高校生とは比較にならないと思っていた。学校の帰り、家の前で耳を澄ませるのが好きだった。其の時はまだ、彼が誰で何歳でどんな人でどんな顔かなんて知らなかった。親に聞いて初めて、あまり年の変わらない男の子なのだと認識。
「あら、いらっしゃい」
彼が鍵を開けると、直ぐに彼のお母さんが出迎えて下さって、わたしは咄嗟に頭を下げた。ああ、お菓子か何か買って来れば良かった。でも下手な物を此の親子には渡せない。また何か持って来よう。
「こんにちは、お邪魔しても良いですか?」
「勿論よ」
真新しいスリッパを並べられて、自分の足を乗せるのは気が引けたが、遠慮気味に履く。今日も彼のお母さんはとても綺麗で見るからに高価な服を着ていて、似合っている。昔はデザイナーとして名を馳せていたそうだ。
彼はピアノが据えられた部屋へ向かい、わたしは彼のお母さんに連れられて、客間に続く。ふかふかのソファーに、勧められた侭腰掛ける。少し経って、テーブルに紅茶が出された。丁寧にお礼を言って、頂く。美味しい。
「ケーキ、どうだった?」
「あ、はい。とても美味しかったです」
「あの子ったら、四日前から毎日作ってたのよ。毎日私が試食担当」
「そうなんですか!?」
四日前と言ったら、わたしが「ケーキ食べたい」とぼやいた日だ。まさか、練習してくれたのだろうか。あれで努力家なのは何となく知っていたが、まさかわたしの為に……。
「あの子、貴女の為なら多分何でもしちゃうわ。我が息子ながら微笑ましいわね」
「え……ええ!?」
何を言ってるんだろう此の人は。彼も偶に何処かずれた行動をするけど、まさか遺伝だったのか!?
「ウエディングドレスは私に選ばせて頂戴」
「あの、いや、」
頭が真っ白になる。違う言語で会話していると、肩に負担がない程度の重みが掛かった。振り向くと、明らかに困っている彼がいる。
「あ、あああああの!」
〈ピアノの準備が出来ました〉
「う、うん」
両手で説明すると、わたしの腕を引いて、半ば強制的に連れて行った。途中、振り返ると、彼のお母さんが意味深長な笑みを浮かべていて、何が何だかよく分からなかった。

彼はわたしを椅子に座らせて、自分はピアノの前に着く。座る前に、両手を広げ、首を傾げて数秒経ってから、意思を伝えようとする。
〈母の言っていた事、気にしないで下さい〉
「は、」
〈貴女が大学を卒業したら、私がきちんと伝えます〉
「な、何を?」
〈だから、待ってて下さい〉
そして、にこりと笑う。
やっぱり何の事か分からないし、はぐらかされてる様な気がするが、彼の笑顔で取り敢えず帳消し。









dance,dance,dance,




on the keyboard













(080119)