(* 仕事上の名前は固定です)







青年




先輩




上司




後輩




少年














ぽつ、ぽつ、ぽつぽつ、ざー……。

「あ、雨」と頬から冷たい感触が伝わって、空を見上げるより早く、雨足は強くなっていた。あー冷たいなあ、なんてぼんやりと思いながらも、ビルの並ぶ街並みを濡れながら歩く。周りの人間がみんな何処かしらの店やら軒先やらに避難していく中、わたしだけは走ることもなく、ゆったりと歩いていた。雨水と共に奇異の視線が絡み付く。雨で身体に染み付いた血の臭いが落ちると助かるのだけれど。ああ、前髪が額に貼り付いて鬱陶しい。エナメル加工のバッグが弾いた水滴を垂らしている。

「寒くないのか?」

背筋がひやりとして、すぐに振り返る。わたしのすぐ後ろに、黒い傘を差した、わたしより年上に見える整った顔立ちの青年が立っていた。艶やかな黒髪と切れ長の二重瞼の目は冷たい印象を放っている。白いシャツの首元にはリボン。仕立ての良い黒いジャケットとパンツは初夏には暑そうなのに、平然としている。そして、雑然としたこの街に上手く溶け込めてはいなかった。

「寒いです」
「傘はコンビニに売っているらしい」
「なんだか面白い言い方ですねー、それ」
「そうなのか?」
「そうですよ」

青年はわたしに近寄って、濡れ鼠となったわたしを傘に入れてくれた。大きな紺色の傘に雨粒がぶつかる音が聞こえる。未だにぼんやりしているわたしは、雨粒の音を数秒間聞いている内に彼が白い手袋をしているのに気付いてから、慌ててお礼を言った。彼は何も考えていないような顔で口を開いた。

「この辺りにミュージックを聞ける場所はないか?」











青年、千葉さんが譲ってくれた傘を閉じて、上司が嫌味ったらしい位に潔癖に磨き上げている築二十年のマンションの一室に行く。千葉さんはわたしがよく行くCDショップに連れて行った。びしょ濡れのわたしは当然ながら店内に入る気になれず、傘を差して足早に歩き出した。

「お」
「あれ、先輩」

螺旋状の古びた非常階段を前に嫌な気分になっていると、上から足音が聞こえ始め、間もなく見知った顔が現れた。一つに纏めた長い茶髪にウサミミの付いた水色のパーカー。蝉という名の殺し屋であり、そして、同じ上司の下で働く先輩だ。

「先輩、昨日お仕事でしたっけ。お疲れ様ですー」
「お前は終わったばっかりか。良いよなあ、近場で。つーか何だよ、傘持ってる癖に濡れてんじゃねえか。見てる俺の方が風邪引くっつうの。ついでにその傘寄越せ。岩西の野郎のセンス悪ぃ傘なんか借りれるかっつうんだ」

先輩は階段から下りながら、蝉がみんみん鳴くようにうるさく喋った。揺れてる髪は柔らかそうだし艶があって、きちんと手入れされているようだ、と感心した。
高校生と言っても通用する見た目のこの人は、ナイフを使ってばったばったと相手を薙ぎ倒す、というよりざくざく切って刺して殺してく人だ。わたしよりこの仕事を長くやっているし、何よりわたしより上手く殺せるし、強い。口煩さが多分実力に見合っている、けれど上司と反りが合わない。

「今日もよく喋りますね」
「うるせえよ、うるさすぎんだよお前も岩西の野郎も!」
「あー、先輩の愚痴が長くなる前にわたしは岩西さんにタオル借りたいので行きまーす」

ぎろり、と不機嫌前回な視線を向けられたので、本当は貸したくないけど、先輩の機嫌を取るために千葉さんの傘を差し出した。つまり、わたしが岩西さんのセンスの悪い傘を借りて帰らなきゃいけないということだ。もう一回濡れて帰ろうかなあ。でも地下鉄乗るから差さないとなあ。

「傘貸しますから落ち着いて下さいよ。ついでにそれ頂き物なのでちゃんと返して下さい」
「可愛い後輩ってのは良いもんだな」

先輩は差し出した傘をにやつきながら受け取って、マンションの外へと歩いていった。意を決して、非常階段を六階目掛けて上り出す。

「お礼に教えといてやるよ」

蛹、と呼び掛けられ、手摺から下を見下ろすと、雨が染み込んだコンクリートから先輩は哀れみの込められた視線と共にわたしを見上げていた。嫌な予感しかしない。

「紅茶、飲まない方が良いぜ。俺のでティーバッグ三回目だったからよ」











眼鏡に髪がちょっとツンツンしててスーツにセンスの悪いネクタイの上司、岩西さんはケチだ。ドが付くケチだ。だからさっき先輩が教えてくれなかったら、わたしはティーバッグ四回目の出涸らしの紅茶を出されていただろう。このカマキリに似た顔の上司は同じティーバッグを五回使うのだ。しかも、自分は最初の方のまともな紅茶しか飲まない。紅茶風味のお湯の餌食になるのはいっつもわたしや先輩なのだ。

「馬鹿じゃねえのか?そんなみっともない格好で来やがって。俺の部屋が汚れるだろうが」

ケチで潔癖症気味な上司はふんぞり返って、新聞社の名前がプリントされたタオルで髪を拭くわたしを鼻で笑った。下着はどうにもならないが、たまたま置いてあった先輩の長袖Tシャツとズボンを借りた。傘を貸したのだからお相子だ。パンプスとエナメルのバッグは水滴を拭き取って、洗面所で化粧も直したが、今日はたまたま薄化粧にしていて本当に良かったと思った。ウォータープルーフのマスカラを開発した人は偉い。

「わたし、先輩が愚痴りたくなる気持ちも分かります」
「蝉が何か言ってたのかよ」
「毎度のことながら機嫌が宜しくないようでしたけどー?」

ほー、とどうでも良さそうに相槌を打って、岩西さんは膨らんだ茶封筒をわたしの足元に投げた。覗かなくても判る。札束二つだ。二人殺したから二百万。だけどこの上司が幾ら稼いだのかは知らない。

「手渡したらどうですか」
「良いじゃねえか。中身も値打ちも変わらねえんだからよ」

わざとらしく溜め息を吐いて、タオルを首に掛けて、床に手を伸ばす。茶封筒を掴んで、ソファに放り投げる。その横に腰掛けた。

「で?次は何処で何するんですかわたし」
「察しが良くて助かるねえ」
「最近、景気が良いみたいですし?」
「業界自体が繁盛してるようなもんだ」
「世も末ってやつですかー」
「お前も此方側の人間じゃねえか」
「ですからー、こーんな普通の女の子が殺しで稼いでる時点で世の中なんか終わっちゃってるんですってー」
「は、お前、女の子って年じゃねえだろ」
「永遠の十七歳ですよーわたしは。正直、年齢不相応な蝉先輩が羨ましいんですけど」
「あれは永遠のガキだな。ピーターパンだ」
「じゃあ岩西さんは典型的な最悪な大人なのでフック船長ですね。さっさと鰐に食べられちゃえ」
「俺がいなきゃ仕事入って来ねえぞ?」
「良いですよー、フリーターになりますから。先輩はニートか殺人鬼にしかなれなさそうですけどー」
「俺には、お前が一番早くくたばりそうに見えるんだがな、蛹」

口論に勝ったような得意気な顔になって、岩西さんは紙を一枚わたしに差し出した。一度立ち上がって、受け取る。地図だ。書き込まれている文字を眺めていると、宮城県仙台市だということが判別出来る。つまり、わたしが仙台まで行かなければならないということだ。

「明日の朝一で行けよ」
「はあ?わたし、さっき二人殺したばっかりなんですよ?」
「それはそれ、これはこれだ」
「どれですか、全く。まだ内容も聞いてないってのに」

そう吐き捨てて顔をしかめると、この嫌な上司はノートパソコンを此方に向けて、わたしにディスプレイを見せた。脂ぎった厭らしい顔をした豚と、ファンデーション厚塗りに毛皮のコートの豚。

「で、どーしてこのつがいの豚は殺されるんですかー」
「知った所で何も変わりゃあしねえよ」
「そういうとこがムカつくんですけど」

こういう時に、先輩は自分で調べるのだろう。しかしながら、わたしは死んでゆく人間に時間を割くのも面倒だと思っているので、結局何も知らずに良いように使われて終わりになる。今日だってそうだった。先輩にこういう話をすると怒られるのだけれど。何故なら、あの人は自我の塊みたいなものだから。

「蛹ってのは外のことは何も知らずに羽化するもんだろ?」











嫌々ながら、あの最悪な上司の最悪にセンスの悪い薔薇柄の傘を借りて、非常階段を苛々としながら駆け下りる。階段というものは、上るのは疲れて面倒になるのに、下りる時は一気に行けるものだ。うわー、人生みたいだ、とちょっと物思いに耽ってみた。

「遅ぇよ!先輩待たせてんじゃねえ!」

俯き気味にアスファルトに踏み出すと、少し前にこの場所で聞いたのと全く同じ声が耳に入り、顔を上げると、目の前に紺色の傘の先端があった。もう少しで眉間にぐさり、だ。いや、ぐさり、はないだろうが、痛いと思う。

「先輩、どーしたんですかー?」
「どーしたもこーしたも、お前、こんなんじゃその内死ぬぜ?俺の後輩なら避けるなりしろよ。これがナイフだったらとっくに死んでるっつうの」
「死んだらそれまでですよ。それに、実際、これはナイフじゃありませんし、先輩には今の所、わたしを殺す気もないようですから」
「屁理屈ばっかりで可愛くねえ後輩」
「傘貸してあげた時と言ってること違いますよー、現金な先輩」

傘を掴むと、先輩は手を離してわたしを上から下まで眺めた。わたしも対抗して観察してみた所、先輩は、よく売ってるビニール傘を持っていた。この様子だと、買ったのだろう。コンビニで売っているらしい、という千葉さんの言葉を思い出した。

「それ、俺の服じゃねえか」
「あー、すいません、お借りしてます。先輩が小柄なのでちょうど良いです」
「お前が太いんだろ」
「うわ、最低ですよ、先輩がこんなに酷い人だと思ってなかった」

Tシャツの襟繰りから下着の肩紐が見えることはない。ズボンは裾を何度か捲ってあるし、ベルトがないから何度か手で引っ張り上げているが。雨で水浸しになった服は、岩西さんの所で干してある。ビニール袋に入れて持って帰るのは面倒だから、勝手に置いてきた。銀行に行くついでに服と下着の替えを買いに行こうか、うん、そうしよう。

「で、先輩はなんで戻ってきたんですかー?」
「わざわざ大事な傘返しに来てやったんだよ。感謝しろ」
「感謝しまーす」
「…舐めてんのか?」
「いーえ、このセンス最悪な傘と男物の服と可愛いバッグと靴の組み合わせで外歩くのは嫌なので嬉しいですよ。ありがとうございます」
「俺も連れて歩きたくねえな」
「あれ、デートのお誘いだったんですかー?」

してやったり、とにやついた笑いを浮かべたら、頭に衝撃。視界がちかちかする中、先輩の握り拳が見えた。畜生、わたしのこと女だと思ってないだろ。

「たまにはしじみの味噌汁でも作ってやろうかと思ったけどもう良い。さっさと帰れ。俺が一人で一パック食う!」

わたしに背中を向けて、先輩は言い捨てる。しじみ、に笑いが零れそうになるけれど、なんとか喉の奥に仕舞い込んだ。此処で機嫌を損ねたままにすると、仙台土産を奮発しなければならなくなってしまう。

「せんぱーい」

呼び掛けてみるが応答なし。しかも、ビニール傘を差して軒下から一歩踏み出した。だから、千葉さんに貰った紺色の傘を背中に勢い良く突き付けてみた。左側、心臓の辺りだ。

「分かりやすすぎだっつうの」

もう少しで背中に当たる、と思った所で、先輩は右に避けて、振り向いた。わたしなら十中八九無理だ。やっぱりぐさり、だ。

「先輩、服買いたいので付き合って下さい」
「なんで俺がそんな面倒臭えこと」
「帰りにスーパーにしじみ買いに行きましょー。あ、一緒にボンゴレパスタとかどうですか」
「貝ばっかりじゃねえか!つうか味噌汁とパスタの取り合わせがまずおかしいだろ!しかも作るのはどっちも俺なんだろ!」
「冷凍食品…」
「俺に食えっつうのかよ!」
「じゃあ牡蠣フライ」
「この時期に牡蠣が並んでると思ってんのか馬鹿!ちったあ自炊しろよ!」
「だって先輩の料理美味しいんですもん」

その通りだ。この人の料理は美味しい。先輩は一見するとガラの悪い若者だが、結構面倒見が良い。そして、わたしはそれに甘えさせて頂いてる。特に料理だ。わたしは掃除や洗濯程度なら出来るが、料理や裁縫はからきしだ。「高卒の癖に家庭科の授業受けてねえのかよ」なんて最初の内は馬鹿にされていたが、冗談だと思っていたのだろう。うちの冷蔵庫、むしろ冷凍庫を見て絶句していた。あとインスタントラーメンだとかお湯入れて何分だとか。「栄養失調で死なれたら俺が見捨てたと思われる」とかぼやきながらも作ってくれた料理を口にして、あの上司はともかく、この人になら何処までもついて行っても良いかもしれない、と思ったような気がしないでもない。だけどわたしは先輩行き付けのポルノショップにはついて行く気がしない。なんでも女店主が情報屋という話だが、どうせエロ本だって見てきてるのだ。

「お前、何か失礼なこと考えてるだろ?」

先輩は傘を握ってない右手で、わたしの左頬をつねった。痛い。このままじゃ顔が変形する。

「いはいんれすけろー」
「間抜け顔」
「せんはいのせいれすー」

先輩の手首を掴むと、ようやく放して貰えた。頬がじんじんする。絶対、わたし女だと思われてない。岩西さんは岩西さんで都合良く女扱いしてくる。ターゲットに警戒されないだとか、そういうメリットでわたしを使っているのだ。まあ実際、実力がある訳でもないけれど。こういう時、うちの近所の安藤くんが本当に良い子に思えてくる。そして、ふと気付いた。

「そろそろ行かないと、わたし達怪しまれるんじゃないですかね」











コンビニの明るすぎる照明で目がちかちかする上に、頭が少しふわふわしている。アルコールが回っているせいだ。レモンのチューハイを一本。白米と鰹の叩きのサラダと昨日の残り物らしい金平牛蒡と味噌汁。実際、先輩が作ってくれたのは味噌汁だけだった。ちなみにサラダはわたしが作ったが、「切って並べただけだろうが」で一蹴されてしまった。
食べたら片付けもそこそこに追い出された。明日が忙しいと知ってたからだろう。良い先輩だ。しかも、何度も先輩の家に上がってはいるものの、一度も手を出されたことがない。わたしがそういうのが殺したくなる程嫌いだとも知っているからだ。実際、わたしが先輩を殺そうとした所で、逆に刺されるのが落ちなのだけれど。
外では雨は止んだけれど、どんよりとした曇り空だ。夜だから、降ってなければ変わらない。そしてわたしは、店内のスイーツ売り場で立ち止まっている。苺のムースとティラミスという究極の選択を迫られているのだ。帰ってから食べて、明日から家を離れるので、両方買うのは気が引ける。カロリーか?数字で選ぶべきなのか?

「あの、さん?」

あれ、この声は安藤くんだ。近所の高校二年生だ。「」って誰だ?ああ、わたしの名前じゃないか。わたし?安藤くんはわたしに呼び掛けているのにやっと思い至る。

「あ、やっと気付いた」
「ごめん、無視してた訳じゃないんだよ」
「分かってますよ、さん、ずっとケーキ見てましたから」
「そんなにずっと?」
「俺、五回は呼んだんですけど、全然気付いてなかったんですね…」
「わー、ごめんごめん!」

安藤くんは項垂れた。正直に言うと、そんな仕草が可愛くて仕方ないのだけれど、可哀想なので手にしていたカップを置いて、頭を撫でてみた。犬みたいでとても可愛い。
「蛹」というのがわたしに付けられた仕事上の名前だ。蝉の前は蛹だと先輩が思い込んでいたからだ。実際の所、蝉というのは幼虫が土から出てきて羽化するものである。何処か間違ってるこの名前は勿論、先輩が考えたのだが、響きが気に入ったし、存在しない蝉の蛹はぼんやりと生きてる自分にぴったりな気がしたので使うことにした。スズメバチという毒使いがいるらしいけど、「さなぎ」の方が弱そうで、つまり自分に合っている。言わずもがな、先輩の一押しは「しじみ」だったが、いきなり「やっぱりお前ごときにしじみなんて名前使われてたまるか」などと言い出した。初めて会った日にそんなことを言われたので、そう簡単に受け流せなかった。そうして「蛹」になったわたしが最初に気にしたのは、次に誰か入ってきたら、「幼虫」になるのか否かだった。
」は本名だ。アパートの契約にしろ何にしろ、基本的には偽名を使うよう心掛けているが、安藤くんに会ったのは就職してすぐで、しかも普通の男の子相手だったせいで、気を抜いてうっかり本名を名乗ってしまったのだった。但し、苗字は一度も教えたことがない。わたしの名前を呼ぶのはあの上司と先輩くらいのもので、蛹としか呼ばれない。だから、という名前は呼ばれない限り、思い出すこともない。つまり、安藤くんや弟の潤也くん、その彼女の詩織ちゃんの前では、わたしは近所のお姉さんという至って普通の女の子になれるのだ。名前って大事だ。

「ちょっと、俺は犬じゃありませんって!」

安藤くんの可愛さを噛み締めていたら、手首をそっと掴まれた。顔が赤い安藤くんはわたしより背が少しだけ高い。前は同じくらいだったのになあ、と懐かしくなった。

「わたしは犬より安藤くんの方が可愛いと思うな」
「べ、別に可愛くないです!」
「飛蝗のボスの犬養より安藤くんの方が好みだよ」

頭を撫でられながらも大人しくしている安藤くんの顔が、ぴくりと強張る。何が地雷だったのやら、ちょっと面倒臭いけど、可愛い安藤くんのことだから考えてみようかと思う。

「安藤くんはグラスホッパーが嫌いだ、○か×か」
「え、別に嫌いじゃない、ですけど…」
「犬養が嫌いだー?」
「いえ、凄い人だと思ってはいます」
「ふーん、わたしは嫌いだけどね、飛蝗」

判った、犬養だ。安藤くんが気に掛けているのは犬養だ。「思ってはいる」って言い方は引っ掛かるからだ。わたしの可愛い安藤くんにもしものことがあったら消してしまえー。

「ところで安藤くんはこんな時間にどうしたの?」
「牛乳とパン切らしてるんですよ」
「今日も主夫だねー」
「主夫って…。さんは?」
「甘いもの食べたくなったの」
「こんな時間に危なくないですか?」
「仕事帰りに先輩の家で夕飯ご馳走になってたんだよ。まだ八時だし大丈夫」
「いくらグラスホッパーが見回りしてると言っても、さんは女性なんですから…」
「な、なんて良い子なの安藤くん!」

先輩なんて殴るしほっぺ引っ張るのに。「あ」と声を溢しながら思い出した。スイーツ。選んでる最中なのだった。

「安藤くん、苺のムースとティラミスどっちが好き!」
「い、苺ですけど…」
「潤也くんも苺好き?」
「好きですよ」

きょとんとしながら首を傾げた安藤くんが持っている牛乳とパンが入ったカゴにティラミス一つと苺のムース二つを入れて、レジに連れて行く。財布を出そうとする彼を制して、自分の財布から千円札と小銭を摘まみ出してレジに置いた。あたふたしながらも安藤くんがレジ袋を受け取って、二人並んで外に出た。

さん、お金…」
「いらないよ」
「え、でも…」
「良いの良いの」
「ありがとうございます!俺、自転車なので良かったら乗ってって下さい!」
「うん、じゃあよろしく」

わたしのバッグとレジ袋を自転車の籠入れて、安藤くんはサドルに股がる。ママチャリが板に付いてる男子高校生だ。わたしは後ろの荷台に横座りして、左腕を傘を握ったまま彼の腰に回し、右手で荷台を掴む。窮屈な体勢で申し訳なく思えた。それにしても、わたしたちはすれ違う人からは姉弟に見えるのだろうか。こんな可愛い弟、欲しかったなあ。

「安藤くん、耳赤いよー?」
「え、あ、何でもないです!」

ぶんぶんと首を横に振りながら、安藤くんはペダルを漕ぎ始める。ぐらり、と揺れたが、安藤くんの腰にしがみついて体制を保つ。初夏の暑さに自転車の速さで起きる風が心地好い。

さんは、」
「んー?」
「周りが正しいと思ってることに対して、自分だけが間違いに気付いてしまったら、どうしますか?」
「うーん、一般論でなら、自分の力で間違いを正すべきなんだろうね」
「…はい」
「でもね、正直に言うとわたしには分からないよ。間違いに気付かない振りをしてる方が幸せなのかもしれない」
「そうですか」
「だけど、間違いを見逃すことを絶対に許せないとしか思えないなら、戦うしかないんだよ」
「戦う、ですか?」
「その為になら自分がどうなっても良いって覚悟を決められるかどうか、じゃないかな」
「どうなっても良いって、例えば…」
「死んでも良いって言える?」
「俺は…」
「勇気はある?」

それから数分間、安藤くんは黙り込んでしまった。そこでわたしは、此処まで言う必要はなかったのかもしれない、と後悔した。
安藤くんは、両親が亡くなってから家庭を支えている以外は、何処にでもいるような男の子だったように思う。何にだって、深くまで踏み込んでは来なかった。事なかれ主義、というのだろうか、むしろ他人と深く付き合うのが苦手なのだろう。潤也くんと話していて、そう感じた。だからわたしは、仕事のことなんて全く仄めかしたことはないし、彼はわたしが何の仕事をしているのかも訊いてこない。彼が突き止めたいと思える物事は、弟のことだとか、自分が興味を持ったことだけだろう。「考えろ、考えろ」と呟きながら、スーパーの大安売りと経営について考察していたことがあった。
久々に会ったら、安藤くんは変わっていた。だって、この間までは何かに気付いてもただ知っているというだけだったのに、今日の安藤くんはどうしようかと迷っている。

「青春だねえ」
「年寄り臭いですよ」
「失礼な!わたしまだ二十!」
「すいません!」
「安藤くんは可愛いから許すけど」
「ありがとうございます…、って可愛くありませんから!」

本当、この子たちはわたしの癒しだ。好きだなあ、と思うと、胸が暖かくなりながらも苦しくなった。端くれとは言え、業界に身を置く人間が、いつまでも表側のこの子たちと一緒に居ることは出来ない。危ないことには巻き込みたくないからだ。それが、酷く寂しい。

「あのね、これだけは忘れないでほしい。安藤くんが何に喧嘩を売っても、わたしは君の味方でいるよ」

少しだけ大きく見えてきた背中に言葉を掛けると、微かに彼の声が聞こえた。小さすぎて、わたしの耳に届く前にタイヤの音に掻き消されてしまった言葉を推測するのは止めておく。彼が何を選ぶかということは、わたしには無関係だから。ただ、彼の幸せを願っておこうと思った。
そして、自宅アパートの前で自転車は停まった。安藤くんの腰から離した左腕でバッグ取って、ビニール袋のティラミスを一つ取り出した。お礼を言って、おやすみなさい、と手を振る。見送ってから家に入ろう。明日の準備をしなきゃ。安藤くんは、再びペダルを漕ぎ始める前に、わたしを見て口を開いた。にこ、と柔らかな笑顔を浮かべる彼に、わたしの頬も緩んだ。

さんの好きなもの作りますから、いつでもうちにご飯食べに来て下さい」






Monday drunk in the Sweet Rain








(090218)