むやみに生きる




さくらがきれい、とほんの小さな、例えれば水面が微かに揺れるような声で呟くと、その傍で詩集を読んでいる桜はゆっくりと顔を上げた。荻島には大きな桜の木がある。桜の木自体は数本あるけれど、大きな桜の木と言われて島民が思い浮かべるのはあの一本だろう。優午があの木を見れないのは残念だ、と今よりずっと昔、幼かった頃に本人に言ったことがある。今思えば、一歩も動けない優午に対して少し無神経だったかもしれない。けれども当の優午は、皆がその桜を見て幸せに思えるのなら私はそれで満足ですよ、と微笑んだのだった。いや、もちろん、カカシの優午は微笑まないけれど、声音のせいかなんとなくそう見えた気がした。

「まだ五分咲きだけど、もう少ししたらもっと綺麗になるね」

桜は黙って、再び詩集に視線を落とす。長い睫毛が影を落とす目許がわたしは好きだ。目の下に刻まれた深い皺から諦めのようなものを感じるし、鋭い眼光を向けられれば、なんだか時間が止まったような気分になる。桜といるこの空間が世界から切り取られたような錯覚を覚える。元より、わたしは桜に暖かみを期待してはいないのだ。研ぎ澄まされた美しさを近くに感じると、自分が生きていることすら曖昧に思えてくる。ふわふわと、半透明な物体になったような気がする。

「散っていく桜の花弁がすべて銃弾だったら、」

わたしは其処で一度口ごもる。桜をちらりと見ると、顔を上げてわたしを見ていた。整った顔や、艶やかな髪が揺れる様子に、どきりと心臓が高鳴った。

「銃弾だったなら?」

この話題になって初めて、桜が口を開いた。清流を流れるような心地よい声が耳に浸透する。その安心感に目蓋を下ろしそうになるが踏み止まり、うるさくないように、囁く。

「もう、桜がそれを手にする必要はなくなるんだろうね」

丸テーブルに無造作に置かれた拳銃に指を指す。年季が入っているが磨かれたそれは、幾人もの命を潰して、裁いてきた。桜は島のルールだ。法律だ。死ぬのが怖いのなら、桜に撃たれるようなことをさなければ良いのに、と誰かが桜に撃たれる度に思う。優午が言うには、外の世界では、罪を犯した人は、殺されることなく牢屋に閉じ込められることが多いらしい。どうして死なせないのだろうかと少し不思議に思った。もし、桜の嫌いな人間が沢山死ぬことが出来るとしたら、桜の花弁に殺してもらうというのは、我ながら良い考えだと思う。桜と桜。桜の変わりに桜が殺す、なんて残酷だけれど、壮観かもしれない。

「それは俺そのものだ」
「銃弾の花弁?」
「人間に銃弾を降らせる桜」

桜が静かに言うものだから、なんだか悲しくなってしまって、言わなければ良かったと後悔した。しかしながら、桜はそんなことは微塵も気にしていないようである。桜の話し方が静かなのはいつものことだ。

「そんな桜があったら、誰も近寄らなくなる」
「うーん、でも、わたしは近くで見たいかな」

桜はうろん気に細めた目でわたしをじっと見る。それでも、瞳は澄んでいるのだから、桜は何をしても美しい。

「死ぬ間際まで、綺麗なものを独占できるって、素敵だと思う」

それは植物の桜だけではない。もちろん、口には出さないけれど。わたしには、桜と誰よりも長い時間を共に過ごしている自信があった。これだけは優午にも負けない。詰まる所、わたしは誰よりも綺麗な桜を独占している気でいる。そんなこと、本人には言えないけれど、百合や草薙に、わたしが桜と一緒にいるものだ、と認識されていることを知った時には嬉しかった。日比野もわたしを探す時は、わたしの家か桜の庭をまず訪れる。桜はわたしが向かい側の椅子に座っていることに対して一度も迷惑がる素振りを見せたことがないから、甘えてしまうのだ。多分、気に留めていないだけだろうけれど。

「桜が舞って散るのは美しい」

細くて長くい脚を組み直し、桜は温度を感じさせない声で言う。

「一本、そろそろ満開になる桜がある」

桜は丸テーブルの上の銃を仕舞い、椅子から立ち上がる。着いて行っても良い、ということだろう。というよりむしろ、わたしを連れて行ってくれるということなのかもしれない。わたしも立ち上がって、歩き始めた桜の背中を小走りで追う。

「桜、手繋いで良い?」
「好きにしろ」

ぶっきらぼうに言い放ちつつも、手を差し出してくれる桜がわたしは大好きだ。春先だが、指先は冬のように冷たい。わたしが暖めてあげよう。

「桜、桜」
「どうした?」
「ありがとう!」

何も言わずに前を向いて歩き続ける桜からは、仄かに桜の匂いがした。桜を見たら、手を繋いだまま優午に会いに行こう。桜の話をしよう。優午は何のお話をしてくれるだろうか。






僕たちは






(090106/090107改稿)