「お人形さん、」

雑踏の中、囁くような聲が聴こえて振り向く。女の、まだそれも幼い女の聲だ。高く結わえた長い髪が揺れた。不審な目をして俺を見る道往く人々に対して、舌打ちを一つ。苛立たしさに目を細めながら周囲を見渡すが、流れの中で立ち止まる人間は見当たらない。再び舌打ちを溢す。

「俺の何処が人形だってんだ」

苦々しく顔をしかめ、腹立たしさを隠すかのようにフードを被って、再び歩き出す。足取りが重い。俺は人形なんかじゃない、岩西の人形じゃない、そう自らに云い聴かせながら必死に前へ前へと進み続けていると、いつの間にか通りを駆け抜けていた。つまらなそうな顔をした人間の群れから逃げ出したくなった。俺は人形じゃない、機械的に生きてる人形なんかじゃ。携帯の着信音に因って、ふと我に帰る。表示された名前も確認せずに電話に出る。俺の機嫌も顧みずに掛けてくる糞野郎は岩西に違いない。

「よお蝉」
「何だよ!俺は今機嫌が悪ぃんだ!」








「兎さん、早くしないと上司が怒ってしまうわ」

お人形さん、と呼び掛けられた気がしてから数日後、また俺の耳に囁くような聲が聴こえた。間違いない、先日と同じ聲だ。今度は夜の住宅街だった。例の如く人殺しを終えた俺は、その家の猫と戯れながら、巨大な水槽に閉じ込められた熱帯魚の群れを眺めていた。ちなみに猫は三毛猫の牝である。牡なら面白かったのに。熱帯魚の種類なんか俺は知らない。しじみと違って食べられないからだ。そうして時間を潰して、誰もが寝静まった住宅街を、兎の耳の付いたフードを被って往くと、彼の聲が耳に届いたのだった。聲はねっとりとした厭らしさを全く孕んでおらず、寧ろ軽快に、くすくすと笑いながら喋っているような、無邪気なものである。

「兎さんは進んで檻に帰るのね」

立ち止まって息を潜める。聲が発せられたのは後ろだろう。後ろの少し左寄り。右手を懐に入れて、ナイフの柄を握る。俺がプロの殺し屋であること等関係なかった。今の俺はプロであるのに無関係の一般人を手に掛けることに対して無感情であり、寧ろ逃がすことに危機感を抱いていた。

「矛盾したこと言ってんじゃねえよ」

前回よりも勢いを付けて振り向き、ナイフを左後方に突き飛ばすように放り投げる。そのモーションに合わせるように、フードが脱げた。手馴れた動作だ。瞬間的に右腕の筋肉に力を入れて、タイミング良く手を離す。たったこれだけで人が死ぬなんて、なんと滑稽な世界だろう。然れども弱くて脆い人間を護ってくれる神様なんて居やしない。俺に細やかな恐怖にも似た不安を縫い付ける女なら居るけれど。

コンクリートブロックを積み上げて作られた壁にはナイフが一本、垂直に、アスファルトと平行に突き刺さっていて、俺の目にははためく白い布が焼き付いていた。スカートを翻して駆けて行った女を追おうとしたが、路上には犬一匹居らず、空中には電灯に群がる蛾が漂っていた。








「ねえ殺し屋さん、今なら自由になれるのよ?」

次に聲を聴いたのはメトロのプラットフォーム。岩西にしては珍しく、その日は俺が起床してからずっと電話がなかった。気を良くした俺は解放感を味わうべくして、ナイフを装備して、財布をポケットに入れてアパートを飛び出した。ああ清々しい。岩西なんか俺がいない間に死んじまえば良いんだ。そしたら俺は一人で業界でやっていくさ。鼻唄混じりに岩西が居なくなった世界を妄想していたら、例の囁き聲が耳を掠める。電車が来るまでまだ数分。今度こそ正体を突き止めてやる、と意気込み、背後を振り向けば、ベンチがあった。俺が立つ側には誰もいない。しかし、この付近にある歯医者の広告の貼られた看板を挟んで向こう側に、女が掛けていた。白い服を着た肩と黒い髪の頭が見える。

「殺し屋さん、やっとわたしが見えたのね」

軽やかな笑い声と共に細い肩が揺れる。俺はナイフの柄に触れながら、ベンチを半周しようと一歩踏み出す。平日の昼間とは云え、俺と彼女の周囲には何故か人がいない。少し離れた場所には主婦や大学生が立っているのに。俺の靴が地面を踏む音がして、女が肩をぴくりと跳ねさせるのと同時に笑い声が止んだ。駄目、と、これ迄で一番大きな聲がする。俺は二歩目を踏み締めて、胡乱気な視線を得体の知れない女に注ぐ。

「もう行かなくちゃ」

困ったような気弱な聲で、まるで逃げ出したいようだったが、俺にはそんなことは関係ない。右足を踏み出す。すると女が立ち上がる。斜め後ろから見たその顔に見覚えはなかったが、聲から察していたように、まだ女と呼ぶには幾分か幼かった。黒髪がゆらゆらとたゆたい、女は少し俯きながら前に進んで行く。このまま進めば線路に落ちるのではないかと、そう口にしようとしてはっとした。女は既に電車に乗っていて、ドアが閉まる音が自棄に明瞭に俺の鼓膜を震わせた。立ち竦む俺の目の前を横切る電車は中々通過しない。なんだ、いつもより長くないか?いつになったらこの電車はこの駅を抜けるというのだ。








「お兄さんを幸せにしに来ました」

プラットフォームでの邂逅から一週間後、自販機でコーラを買って、夕方の公園で空いたベンチを探していた時、白いワンピースに黒い髪の、少女と呼ぶには大人びているが、女と云うには幼い、あの聲の持ち主を見付けた。一人で深緑のベンチに掛けて、俺をじっと見ていた。大きな目が硝子玉みたいで、何処か作り物めいている。直ぐにあの女、少女の方がしっくり来るかもしれない、だと気が付いた俺は、コーラの缶を握り絞めて、幾らか早足で近寄る。そして彼女は薄く笑って言ったのだった、お兄さんを幸せにしに来ました。

「お前、何なんだよ」
「わたしはねえ、そうね、神さま。お兄さんの神さま」
「神様?」
「お兄さんだけのね」
「馬鹿馬鹿しい、てめえみたいな得体の知れない餓鬼に何が出来るんだっつうの」
「だから、お兄さんを幸せにすることよ」
「幸せ幸せって、なんで俺をそんなに幸せにしたがるんだ」
「だって、幸せになれば、今のお仕事を辞めるでしょう?」
「さあな」
「お兄さんがお仕事を辞めれば、お兄さんが誰かの不幸を背負うことはないし、誰かがお兄さんに不幸にされることもないもの。それって素敵なことだと思うわ」
「ふうん」
「それにね、お兄さんが幸せならわたしも嬉しい」
「そういうの、何て云うか知ってるか?自己満足っつうんだよ。お前は所詮、自分の幸せと俺の幸せを混同して考えて押し付けてるだけだろうが。俺はお前みたいなの嫌いだ。大嫌い」

プルトップに指を掛けると、ぷしゅ、と炭酸が弾ける音がした。缶の穴をそのまま口に運ぶと、砂糖のべたつきと炭酸の喉越しが雑ざり合って、今一さっぱりしない。少女はそんな俺を頬を弛めてみている。ぬるま湯に浸かって育ってきたのが見て判るような餓鬼に俺の何が解るんだっつうの。

「全ては自己満足から始まるのよ」
「知ってんじゃねえか」
「誰かの為に、なんて誰かに歓んで貰って自分が嬉しくなりたいからよ。誰かが嫌がるから、なんて嫌な気分になるのは結局他人なのに、それで自分が嫌われるのが怖いから。皆、自分に還元されるんだもの」
「人間の自己満足で飼われる動物の身にもなれって思わねえか?」
「思うよ。でもペットショップの動物はペットとしての役割が果たせなければ棄てられちゃう。ペットショップを考案した人間に責任があるのかしら」

俺は何も云わずに、茶色い着色料の炭酸飲料で体内を荒らして行った。周囲を見渡すと、ベンチで寝るホームレスや、学校帰りの制服を着たカップル、砂が服や膝に付いた小学生、犬を連れた主婦、一見しただけでリストラされたことが判るスーツを着た中年、夕方の散歩中の老人、まるで住宅街の縮図だ。彼等の目に、俺とこの少女はどう映っているのだろう。

「なあ、」

隣を見ると、誰もいなかった。女は俺に悟られずに消え失せた。そして俺は飲み干したコーラの空き缶を握り潰す。携帯の着信音が虚しく響いた。畜生、何だっつうんだ。








「ね、蝉さんはどうしたら幸せになるの?」

今更根本的なことを訊くのかこの女は。そう思って大仰に溜め池を一つ。彼女はパスタをフォークに絡み付ける手を止めて、眉尻を下げた。俺がアパートに帰ると少女がいた。あの囁くような聲を持った、白いワンピースの少女だ。俺の神様だとか云う、あの女だ。ドアを開けたら食事の匂いがして、玄関には女物の白いパンプスが揃えて置かれていた。対照的に自分の靴をバラバラに脱ぎ捨てて、台所を備えたダイニングに駆け込む。奴がいた。クリームソースのパスタが二皿置かれたテーブルを思いっきり掌で叩くと、台所で背を向けていた白いワンピースの黒髪が振り返った。そうして穏やかな笑みを湛えて云った、お帰りなさい。ふざけんな。

「どうやって入った!?ピッキングの跡なんかなかったぞ!」
「だってわたしは神さまだもの。蝉さんの居る所なら何処へだって行けるわ?」

相手に聴こえるように舌打ちを溢す。彼女はそれを気にも留めずに、俺に席を勧めた。パスタの量は二対三くらいの差で違っていたので、俺は三の方の席に着いた。サラダが一皿ずつ添えてある。ドレッシングは少な目だ。目の前に少女が掛ける。女と食事をするのなんて、桃以来だ。彼女は桃より若いし、安藤よりも年下だろうが、中身の面倒臭さは似たり寄ったりだと思うと、食卓に華があったとしても特に嬉しくはなれなかった。しかしながら、この部屋で誰かと食事をすることになるとは思ってもみなかった。どうやって入ったのかは知らないが、一先ず目の前の現実から目を反らして、並べられたフォークを握った。俺がパスタを口に運ぶのを見ると、女もフォークとスプーンを使って食事を始める。

「美味しい?」
「悪くはない」
「良かった」

そこから黙々と、麺や野菜を口に運んでは咀嚼するという行動を繰り返し、少女は幸せそうに俺を眺める。その情景が何処か作り物めいていて、だからこそ、俺が人殺しであって、彼女が正体不明の自称神様だという現実が乖離していた。パスタに絡まったサーモンを解すように噛む。岩西はクリームソースには茸だと主張するが、俺はクリームソースて云えばサーモンだと思う。悪くはないと云ったが、結構美味い。

「神様って何なんだ?」
「神さまなんて何処にだって居るのよ、蝉さん知ってた?」
「八百万?」
「八百万と別に沢山」
「宗教か?」
「宗教とも別物」
「じゃあ何だよ」
「ボブ・ディランを神さまだと云う人が居れば、ビートルズに心酔する人もいる」
「岩西にとってのクリスピンかよ」
「何かにすがりたい人の数だけ神さまはいるの」
「俺はお前に救いなんて求めてない」
「自分が救いたいと思ったら、神さまになれる」
「…会話が噛み合わなくなってきてると思ってんのは俺だけか?」
「神さまはただ存在を認知されるだけで神さまなの。好意にお返しを欲している訳じゃないもの」
「人類にとって最大の嘘は神の存在を信じ込ませたことって誰か云ってたな」
「わたしは蝉さんの神さまになりたいと思ったから出来上がった。蝉さんが淋しがりだからわたしは現れた」
「ん?」
「だからわたしは蝉さんを幸せにしなきゃいけない」

そして冒頭に戻る。蝉さんはどうしたら幸せになるの?

「働かざる者喰うべからずって知ってるか?」
「うん」
「殺し屋を辞めたら俺は喰ってけねえし、殺し屋として蝉は存在するんだ」
「殺し屋じゃなくなったら死んじゃう?」
「喉掻っ斬るか腹打っ刺すかして死ぬな」
「蝉さんが死ぬの、厭だな」
「そもそも幸せって何だ?他人に与えられるもんか?俺は岩西なんて殺そうと思えばいつでも殺せるんだ。金もある。一人殺せば百万だぜ?結構貯まってんだよ」
「自由と幸せは別物?」
「おう」
「蜆が沢山あっても幸せじゃない?」
「蜆ばっかりあっても食べきれねえよ」
「毎日蜆は?」
「毎日砂抜き見てたら幸せかもしんねえけど、毎日蜆食べるのは飽きる」
「うーん…蝉さんの幸せって難しい」
「あのなあ、常に幸せでいたら幸せだって感じなくなるだろ?時々、蜆の砂抜き見れればそれで充分だ」

見るからにしょんぼりと物哀しげな様子で食事を再開した少女を見て、悪いことをしてしまった気分になった。でも仕方ない、俺は他人に何かを望むような性格じゃない。レタスとオニオンを一気にフォークで刺して大きく口を開く彼女は歳相応で、しかし自分の部屋に俺と一回り程は離れていないが、その半分は歳の離れた女がいると思うと、何とも云えない気持ちが湧いてきた。

「わたしが蝉さんにしてあげられることは何もないのね」
「まあとりあえず、皿洗いでもしてくれれば良い」
「うん…、解った」

俺が女の面倒臭いと思う最大の点は、気分屋である所だ。それも大袈裟であるから面倒なのだ。俺も確かに感情の起伏が激しくて、機嫌の善し悪しで行動パターンが変わるが、女のそれには此方合わせなければならないような気がしてくる。だから厄介だ。クリームソースを絡めたパスタをゆっくりと噛みながら、女の顔を眺めた。

「ご馳走さま」
「ごちそーさん」

俺の満足げな顔を見て、俯き気味だった彼女の顔付きは単純に晴れやかになった。俺は只それを可愛いと思う。彼女の言動や行動に振り回されて来たが、今日にはもう不快さは消失していた。洗い物をする背中を頬杖を付いて観察する。細い背中。俺よりずっと小さい背。

「お前に神様はいるのか?」
「自ら進んで神さまになりたがったひとは神さまにすがっちゃ駄目だと思うの」
「へえ」
「だけど、わたしは神さまなんかよりもずうっと蝉さんの方が好きよ」

ああ、やっと解った。彼女は誰でもなく俺にとっての神様になりたかったのだ。只、俺だけの幸せを願って、俺の幸せを自らの幸せだと感じられる、つまり恋に陥ってしまったのだろう。自分でそういう考えに思い至るのは凄く照れ臭いが。だってそうだろ、こいつ俺に惚れてるとか、自意識過剰なチャラ男みたいじゃないか。最悪だ。

「また来いよ。俺はお前のこと嫌いじゃないから」
「ありがとう」
「お前といると退屈しないし」
「じゃあ次は蝉さんがわたしを探して?」
「はあ?お前、何処に出てくるか判んねえじゃねえか」
「大丈夫、蝉さんならきっと見付けられるわ」

洗い物を終えた手をタオルで拭いながら、彼女は俺の顔をじっと見て微笑む。歳相応のあどけなさと不釣り合いな柔らかさがごちゃ混ぜになったその表情に、俺は少しだけ神様を錯覚した。俺が手を伸ばすと、するりと横を通り抜けて、取り残された俺に一言残して去って行った。

「さようなら」








それから一ヶ月、外を歩く度に白いワンピースと黒い髪を捜しては落胆する日々を送ってきた。見付かりやしない。捜させるならもっと判りやすくしやがれ。苛々を発散しようと、転がっていた空き缶を壁に向かって蹴り飛ばした。

最初の一週間は良かったのだ。直ぐには見付からないだろうと踏んでいたから。二週目、まだ仕方ないと諦めが付いた。三週目、そろそろ見付かっても良い頃だと思い始めた。四週目、焦り出した。そして今週は苛付きが現れてきた。

桃に頼むことも考えた。でも考えてみれば、俺はあいつの名前も知らない。髪も服も変えられる。つまり俺しか捜せない。うざい、うざすぎ。なんで俺がこんなに振り回されてんだよ。

「チッ、岩西かよ」

携帯のコール音に舌打ちして、俺は通話ボタンに指を掛ける。単調な毎日に逆戻り。








雑踏の中を歩いていると、俺が一つの生命体の一部になったような気分になる。平日の朝と夕方のラッシュならともかく、日曜日の真っ昼間に人がわらわらと密集しているのも、見ていて良い気分じゃない。ほら、其処の主婦、子供を動物園にでも連れて行ったらどうだ。レッサーパンダとか可愛いじゃねえか。仙台の動物園じゃ盗まれたんだぜ?

「あ、あの!」

妙に耳に馴染む声だと思った。そう云えばあの女、どうなったんだろうな。最後に見てからそろそろ半年が経つ。二ヶ月が経った頃に、自分から捜すのを諦めた。岩西には落ち着きがないとか馬鹿にされたし、桃に話しても自分で捜せと云われた。

「ストラップ落ちましたよ!」
「あ?」

コートを軽く引っ張られ、其処で漸く、呼ばれているのが俺だと知る。首を後ろに回るだけ回して、揺れる黒髪が視界に入ってはっとなる。女の手が離れる感触があって、俺は頭に浮かぶ姿を振り払うように振り返る。

「あ…」
「これ」

差し出された見覚えのあるしじみのストラップに触れることもせず、俺は立ち竦んだ。あの少女が成長したら、と目の前の女を見て考えた。間違いなくこうなる。幼さは抜けたもののあどけなさは残る面影。しかし、だ。服装は仕方がないとしても、半年で三年から五年程度も年を取る筈がない。他人の空似か?だけどこの声は間違いなくあの聲だ。

「どうかしました?」
「アンタ、俺に会ったことないか?」
「え?あ、ごめんなさい、判らないです」

違う、あいつはこんなおどおどした話し方じゃない。声が同じせいで違和感を更に感じる。それにもっと無遠慮で我儘だったし、やっぱり別人だ。それでもあの姿が俺を引き留める。

「白いワンピース」
「はい?」
「着てなかったか?」
「ああ、えっと、  に会ったんだと思います。いっつも白いワンピースだったから」

名前が聞き取れなかったが、聞いたところで俺はあいつの名前なんか知らないし、訊き返すこともしなかった。名前よりも引っ掛かったのは、目の前の女が過去の話をしていることだ。

「…だった?」
「亡くなったんです」
「え?」
「当時は一家惨殺ってニュースになってたんですが、まだ犯人捕まってなくて…。うーん、三年半前だったかな」
「…へえ、ああ、墓は何処に?」

目の前の女は駅名と片仮名の墓地の名前を云う。俺がしっかりと頭に残そうと反芻している内に、目前には誰もいなくなっていた。直ぐに周囲を捜したが、不審なものを前にしたような目で俺を見る、ラッシュを構成する人々ばかりしか見付からなかった。またかよ。ちなみに、携帯のストラップは付いていて、外れた様子もなかった。








矢張りというか、彼女は育ちが良いようだった。家は金持ち。キリスト教の霊園の奥に配置された格別に大きな洋風の墓には、親子三人の名前が刻まれていた。俺の家から遠い為か、名前を知ってから既に二時間が経っていた。

「神様っつーより仏さんじゃねえかよ」

虚しさが込み上げてきて、俺は持ってきた仏花を墓に向かって放り投げた。なんだよ、ちぐはぐすぎるだろこの組み合わせ。でもまあ、神様なんて信じてるのかもよく判らないお前にはお似合いだよな。平日の閑散とした墓地に、俺の声は呑み込まれていく。今なら何を云ったって構わないだろう、岩西にだって馬鹿にされない。

「お前を殺したの、俺なんだろ?さっき電車で思い出したんだぜ?親が必死に逃がそうとしてんのを無視して突っ立って俺を見てたよな、無抵抗で楽だったんだ」

お前、馬鹿だよ。馬鹿すぎ。大馬鹿者。抵抗されようと殺してたけど。死んでからも諦めが付かないって、執念深すぎだろ。三年も経ってたのに。

「俺、結構お前のこと好きだったんだぜ?まあ終わったことだけど。多分もう此処には来ないから、これで本当に終わりだな。最初は鬱陶しかったけど、ちょっとずつ楽しくなってったんだ。パスタも美味かった」

終わりじゃない、俺が終わらせたいんだ。彼女が死んでいると知って、あの図体のデカい眼帯の男を思い出したから。俺は此方側にいる、引き込まれてなどなるものか。甘言や眼差しに誘い込まれてなんかやるか。

「じゃあな」

そうして立ち去ろうとすると、あの聲が耳を掠めた。彼女はもうずっと出てきていないのだから、幻聴かもしれない。

「目は覚めそう?」






この子はあの世の終わり





(090611/100117加筆修正)