「君は俺を疑っているんだろう?」と、狭い廊下の壁にもたれ掛かったディエゴ・ブランドーは、食後の食器を載せたワゴンを押すわたしを待ち伏せて言った。

この新しい旦那様は奥様をきっと全く、微塵も、愛していないに違いない。手に取るように分かる。初めて奥様にこの屋敷に連れてこられた時からずっと、彼が見ているのは八十三歳になられた奥様ではなく、資産だ。そんなことは、彼にぞっこんの奥様以外には分かっていた。分かっていたのに、ご友人も、周囲の使用人も、みんなして彼の話術で貶められていったのだった。わたしだって一介の使用人に過ぎないのだから、誰かに「あの男は奥様から財産を奪うために結婚したんですよ」なんて言った所でクビになるだけであり、どうせ奥様に何事かあったりしたらみんな路頭に迷うことになるのだから、結局何をしたって変わらないことに気付いた。だから一人で着々と、新しい職場を探しながら日々の業務に明け暮れているのである。だって、ディエゴ・ブランドーが切り捨てるわたしたちの転職先を見つけてくれるだなんて、万が一にも有り得ないし。

そんな失業者予備軍の生活を送っているわたしは、その原因である張本人に目ざとく発見されてしまったようだった。やってられない。ディエゴ・ブランドーは顔が良いから、同僚の女の子に大人気だ。しかも女の子っていうのは噂だとかゴシップだとか、そういうのに目がない。だからきっと彼はボロを出さないと踏んで、わたしはそれを逆手にとって、出来る限り誰かしらと一緒に行動するようにしていた。しかし「わたしこんな重いもの運べなーい。だから手伝ってよ」って態度を取ってたら上司に目を付けられてしまった。ケーキがないならパンを食べるのではないけど、ワゴンなら力なんてほとんど要らないんだからこっちをやれ、みたいな。言い逃れは出来ない。そして食後のワゴン運びを命じられて三日、今に至る。

「旦那様、こちらはわたくし共の作業場でございます。どうぞお部屋へお戻り下さいませ。紅茶かお酒が必要でしたらすぐに手の空いている者に」
「言葉も理解できないのか?此処が何処であろうとどうでも良い。質問に答えろ」
「ですから、そちらに立たれますと、わたくし共の仕事に支障が出るのです。ご理解いただけますか?」
「主人に楯突く気か?」
「わたくしの雇い主はあくまで奥様です」
「その奥様にお前を辞めさせることも出来るんだぜ?」
「どうぞ、奥様にご進言下さいな。解雇されたって構いません。わたくし、今度は資産目的の方に狙われないような、もっと慎まやかなお宅にお世話になろうと思いますの」

お客様向けの営業スマイルで見送りながら、再び厨房へとワゴンを押し始めた。背中に舌打ちが届いたけれど、それでビクついてるようじゃやっていけない。お客様のお召し物にお茶かけちゃった時にものすごく叱られて慣れた。それに比べればディエゴ・ブランドーなんて怖くない。しかし、まともなジョッキーだったら格好良かったんだろうな、と思うと、少し勿体無いような気持ちになった。ジョッキーとしての腕前は素晴らしいものであるらしい。わたしは競馬には行かないからその凄さを全く分からないのだけれど。











警察の聴取を受ける順番を待ちながら、半年前のあの日のディエゴ・ブランドーとの会話を思い出していた。きっとディエゴ・ブランドーが奥様に毒を盛ったんだ。それは、彼が嫌いだからそう思うんじゃなくて、わたしが奥様にお薬を持っていく時、半ば強引に彼に仕事を取られたことがずっと引っ掛かっていたからだ。他の子は、「旦那様がお持ちした方が奥様も喜ばれるし、ご病気も良くなるでしょ?」なんて言ってたけど、そんな訳ない。奥様の薬を毒薬にすり替えたとわたしは考える。警察は今のところ病死と見ていて、捜査もお金持ちのお屋敷云々でやっているだけだ。しかし、もしもこれが殺人事件に一転してしまったら。その先で自分が良い目に合わないことは直感的に理解してしまった。ディエゴ・ブランドーが嵌めるとしたら、十中八九わたしだ。あの日から、絡まれることこそそうそうなかったものの、背中に焼け付きそうな視線を感じたり、目が合おうものなら互いに逸らす前に顔をしかめられたり、敵に回したとしか思えなかった。

例えば、この後、わたしがディエゴ・ブランドーの名を警察の前で挙げたとして。一、警察が一介の使用人を信用するだろうか。ニ、事件性があると考えるだろうか。三、ディエゴ・ブランドーを調べるだろうか。そしてもし、その後彼の反撃を食らったとして。彼よりわたしを信用するなんて、ゴシップ好きくらいのものだろう。想像がつかないのは、わたしはディエゴ・ブランドーの名を出さなかったとして、彼がわたしに罪を被せるかどうかだ。さて、何を伝えるべきか、何も言わずにいるべきか。あーあ、さっさと転職しておけば良かった。

「そこの使用人」

廊下に運び出した椅子に腰掛けて、焦点の定まらない目でぼんやりと考え込んでいたら、一番聞きたくない声に呼ばれた。此処で事情聴取を待ってる使用人がわたししかいないなんて、運すらわたしに味方してくれないようだ。

「はい、何か御用でしょうか?」

気だるげに首を動かして視界に彼の姿を納めると、今日のレースの準備に行くと言っていたはずのディエゴ・ブランドーが口元にだけ笑みを浮かべながらゆっくりとこちらに歩いてきていて、その冷え切った目を見てわたしは微かに身震いした。このままじゃ多分、最悪な方向に事態が向かっていってしまう。彼がわたしに罪をなすり付けるなんて容易いだろう。そもそも、病死扱いなのだ。犯人がいない状態から疑惑が浮上するなんて、世間が望んでる事件のテンプレートじゃないか。そうなったら弁解なんてわたしごときじゃあ無理だ。

「もう少々致しましたら、わたしには警察の方の事情聴取の番が回って参ります。他の者にお申し付けなさった方が宜しいのではないでしょうか」

状況回避のために必死に口を動かすけれど、此処で彼をかわした所でどうなるのだろうと思い至ると、急に力が抜けてしまった。諦めるしかない。彼を怖いと認識してしまった時点で、わたしは退路を断ってしまったに違いない。彼よりも若いのに、こんな所で終わってしまうようなのだから、人生って何があるか分からない。最悪。

「今更身の程を知ったのか?」

長い前髪から覗く両目が怖くて、見ないように自分の膝を睨み付けた。しかし彼がわたしの前を素通りして行くはずもなく、彼の両足がわたしの前で止まるのが見えてしまって、ごくりと生唾を飲み込んだ。わたしの恐怖を知ってか知らずか、彼はわたしの顎を掴み、上を向かせる。逆光で顔がよく見えない。目を凝らそうとしたら、表情の分からない顔が近付いてきて、耳元で彼が喉の奥で笑う声が聞こえた。

「この屋敷に残るか、人生を捨てるか、選べよ」

そう機嫌の良さそうな声音で囁かれるやいなや、乗馬用の革の手袋が口の中に突っ込まれて、いきなりのことにむせそうになったけれど、えづいただけで留まった。舌を噛み切って死ぬことを防ぐつもりなのだろう。口の中に漂う革の匂いと感覚に吐き気を催しそうになり、手袋に収まった指ごと噛みそうになった。反抗するように両手で彼の手首を掴んで引っ張ったが、びくともしなかった。諦めた両腕がだらりと垂れる。

「なあ、黙って俺の元に残るなら、可愛がってやるって言ってるんだ」

尚も甘ったるい声で囁き続けられ、息苦しさで意識が朦朧となってきていることもあって、だんだん物事を上手く考えられなくなってきた。生きるだとか死ぬだとか、そういうことじゃなくて、こいつから逃げたかった。その一心で手袋に歯を立てて口を閉じる。顎を掴む手を振り払うように無理矢理顔を後ろに引くと、ずるりと手袋が脱げる感触があった。このまま吐き出して逃げようと口を開けて、手袋の落下と共に立ち上がろうとしたが、想定の範囲内であったようだった。冷たい革と角ばった手が首を這う。冷徹な目を乗っけた無表情な整った顔が、鼻の頭が掠めそうなくらい近くにある。絞められる。怖い。声を掛けられた時点で逃げておくべきだったのだ。いや、違う。初めて声を掛けられたあの日に、頭の悪い女の子ぶっていれば。そうして頭の中は記憶を順番に遡って後悔を繰り返し、体からはぐったりと力が抜けていった。

「今此処で、」
「なんだ?」
「わたしが貴方の元に留まると答えたとしても」

もつれた舌を落ち着かせようと、一呼吸する。体の震えを必死に押し殺す。

「わたしは逃げることだって、手紙を書くことだって、電話をかけることだって出来ます」

つまり、今わたしを甘やかすことに意味なんか全くないのである。

「それで?」
「でもそうした所で、貴方はわたしを奥様を殺害したとでっち上げて摘発するんでしょ?」
「分かっているじゃないか」

何れにしろ、わたしは腹を括らなければならないということだ。飼い殺されるか、突き落とされるか。どちらも、ましてやその元凶がディエゴ・ブランドーだなんて、もっと嫌だ。気に入らないからといっても、この仕打ちはあんまりだ。何が競馬界の貴公子だ。腹立たしい。けれども逃げ出したいくらい恐怖しているのも事実だ。

「貴方はわたしに何を望んでいるの?」

喉を潰されている訳でもないのにかすれた声で、吐き捨てるように問い詰めると、するりと剥き出しの左手が這い上がってきて、わたしの頬を軽く撫ぜた。その手つきが妙に優しくて、今までの苦痛は全て白昼夢だったのではないかと疑いたくなった。けれども次にそれもこの男の手の内だったと知り、泣きたくなった。

「気に入ってる女を近くに置いておきたいと思うのは当然の感情だろ?」

視界の端で揺れる目映い金色の髪に気付くと、首筋に柔らかいものが押し付けられた。慌てて振り払おうと手を伸ばしたが、それよりも先に彼の頭が離れていった。暖かい感触が残っているのが気持ち悪くて、指先で強く拭った。気に入ってる?馬鹿言うな。それなら今までの態度も、この仕打ちも、一体何だと言うのだ。今にも声を荒げそうなわたしを一瞥すると、ディエゴ・ブランドーは満足そうににやりと口角を上げて去って行った。椅子を倒しそうな勢いで立ち上がると、見計らったようなタイミングで正面のドアが開いた。これから奥様の話をするには幾分か背徳的な気分を押し殺して、わたしはどちらも最悪な方向にしか転びそうもない道を選ぶために、手入れの行き届いたカーペットの上を歩き始める。脳裏にちらつくあの顔を掻き消そうと試みるけれど、反って侵食されてゆくだけに過ぎなかった。






(090902)