雷蔵が迷って迷って迷ってどうしても決められない時はわたしが選んであげる、と先輩はよく僕に言ってくれた。僕は毎回困ったような笑顔を浮かべるのだけれど、本当はとても嬉しかった。自分の優柔不断な所は、忍者は考えることが大事だとは言え、短所だという自覚もあるのだが、大抵周りに流されて終わってしまう。しかしながら、特にそれが嫌な訳でもない。例えば、三郎と一緒にいると、勝手に、というか三郎の好きな様に選んでくれるから楽だ。兵助は食堂で僕がメニューを迷ってると、豆腐定食を注文する。そして豆腐と他のおかずが入れ換えられている。ハチは僕の意見を尊重しようとしてくれるから、いつも困らせてしまって申し訳なく思えてくる。そして、先輩。最初は、先輩の僕に対する、というか僕の迷い癖に対する対応は三郎に近いように思っていたが、考えてみれば全然違った。その時その場の僕に適した選択肢を挙げてくれるのだ。僕の力量だとか好みだとか、その日の気分も、彼女は把握してくれている。三郎は、「先輩、一歩間違えばストーカーですよ」なんて笑うけど、僕には有難い。一学年上の六年生のくのたまである彼女は、頭の回転が早く、冷静な判断が出来、実力もある。先生達にも認められ、忍たまの六年生とも信頼し合っていて、実習で見た立花先輩との息の合った連携プレーには圧倒された。それだけ凄い人が、僕のことを考えてくれてるのは、とても嬉しい。しかし反面、僕と彼女の差を感じることが増えてきている。僕は兵助程真面目じゃないし、三郎のような才能もない。

「先輩ももう卒業ですか」
「うん、これで三郎も最高学年ね。学級委員長委員長になったりして」
「変な響きですよねー、それ」
「委員長の委員長だから」
「兵助は火薬委員長かな。それでハチは生物委員長で相変わらず毒虫育ててんでしょうね」
「雷蔵は、」

僕が図書室の当番の日、よく三郎と彼女は入り浸っている。僕は中在家先輩まで厳しくはないから、多少喋ってても怒らないからだろう。他の生徒がいたら注意はするけど。毎回の様に、同じ顔の三郎に僕と仕事を代わってほしい、と思う。そして僕の恨みがましさの混じった視線に気付いた三郎は、いつも先輩を置いて出ていく。

「あ、次の授業の教材運ぶ様に頼まれてんだった」

三郎の口角が上がったのを見て、安心感からか、溜め息が出た。僕は図書室から出ていく三郎を見送りながら、新刊を抱えて棚へ向かう。すると、先輩も立ち上がって、机に積んである分別済みの本を何冊か手に取った。慌てて先輩に声を掛けると、これまた毎度のことながら、手伝いを進み出てくれた。

「雷蔵だけ働いてるなんてつまらないもの、構ってくれないから」
「三郎がいれば良かったんですけど」
「雷蔵がいるなら何でも良いの。図書の整理だって、長次の手伝いだったら進んでやったりしないわよ。きり丸相手ならバイト代要求するしね」

これだから、気に入られてると自惚れてしまうのだ。くのたまの四年の子が雷蔵のこと好きらしいぜ、とかハチに言われたことがあるけど、僕は内心冷めていた。僕は先輩にしか興味がない、とハチだって知ってて言ったのだろう。そんな訳で、先輩に押し倒す勢いで突進する七松先輩や、綾部の蛸壺から救助される善法寺先輩に対して妬ましく感じる僕は、先輩が卒業したらどうなってしまうのだろうか、と悩む回数が日に日に増加している。僕が迷って迷って迷ってどうしても決められない時は先輩が選んでくれる、それに頼って数年間過ごしてきた僕は自立すべきなのかもしれない。もう六年生だ。だけど、割りきれない。確かにそろそろ僕は自分の悩み癖を何とかしなきゃいけない。でも、そしたら先輩は僕のことを考えずに済むようになって、僕から離れていってしまうかもしれない。自分本位の二律背反だ。

「先輩は就職決まってるんですか?」
「うん、卒業するからにはね」

この場で迷い出したら手が止まってしまう。ぐちゃぐちゃになり始めた思考回路を空っぽにする為に、話題を絞り出して、先輩に話し掛ける。が、やはり卒業に関係する話を無意識に選んでしまった。僕に背を向けている彼女がどんな顔をしているのかは分からないけれど、少し寂しそうな声音に心の臓が痛くなった。

「先輩は優秀だから、引く手数多でしょう?」
「仙蔵程ではないわよ」
「城仕えなんですか?」
「ううん」
「じゃあ利吉さんみたいにフリーで?」
「まだ秘密」

振り返って、悪戯っぽく小さく笑う彼女に、胸がどきりと高鳴る。このまま、この部屋が時間から切り離されてしまえば良いのに。

「寂しくなるなあ」
「はい」
「仙蔵と一緒に文次郎をからかうことも、小平太に突進されることも、長次の通訳することも、ドジった伊作を留三郎と助けることも、もう二度とないのかもしれない」

寂しい、と再び先輩は呟く。その気持ちが伝染して、切なくなって、俯いた。冬が終わり暖かくなった部屋に満ちた、紙の匂いと彼女の薫りが鼻を掠める。此処で一年生だったら泣くことだって許されるのだろうが、残念ながら僕はもう十四歳だ。委員会の後輩のきり丸は泣いたりしないように思えるけど。

「湿っぽい空気にしてごめんね」
「いえ、寂しいのは僕もですから」
「五回も先輩を見送ってきたってのに、いざ自分達の番になると、ねえ」
「多分、」
「うん?」
「僕にとっては今年の卒業式が一番哀しいものになるんだと思います」
「どうして?」
「先輩がいなくなるから」

真剣な眼差しを注ぐと、彼女は少しだけ驚いたように瞬きを二回した後、とてもとても嬉しそうな顔をした。ああ、僕は本当にこの人が好きだなあ、幸福で居てほしいなあ、怪我なんか一つもしてほしくないなあ、人殺しの仕事なんかしてほしくないなあ、ずっと傍にいてくれたらいいのになあ、生きてほしいなあ、死なないでほしいなあ、と延々と放出され続ける彼女に対する欲求に耐えきれず、勢い良く駆け寄って、両腕で抱き締めた。僅かによろけた先輩は、七松先輩で耐性が出来ていたようで、背中から棚に突っ込むことは起きなかった。

「先輩がいなくなったら、僕はいつまでも迷い続けますよ」
「困るね」
「はい、困ります。だから一緒に居て下さい」

無理なお願いだということは重々承知だ。先輩を困らせることになるのも、自分が我が儘なのも分かっている。だから今だけ。今だけで良い。もうすぐ此処からいなくなってしまうのだから、今だけは僕の傍に居て下さい。












式が終わり、六年生の周囲には、一年生から五年生まで様々な生徒が群がっている。僕も中在家先輩に挨拶をした後、三郎と一緒に色んな先輩にタイミング良く近付いた。決まって皆、あいつを頼んだ、と言ってくる。不可解さを全面に押し出すと、一様に底意地の悪い顔をされた。三郎にまで。

「どういうこと?」
「その内分かるって。ほら、先輩今なら話し掛けれるんじゃないか?」

僕の顔でにやにやしないでほしい。三郎を軽く小突いてから、先輩に駆け寄る。取り囲んでいたくのたまの集団が離れていく所だった。やっと話せるとほっとして、後数歩の所で、一人のくのたまが彼女の前に立ちはだかった。見覚えがある。確か四年生で、ハチ曰く僕のことが好き。真横から先輩とその四年生を見た僕には全て見えてしまった。四年生の泣き腫らした目を伴った怒りに満ちた顔と、振り上げた右腕、そして先輩の頬を叩く右手。ばちん、と乾いた音が耳に届いて、同時に僕の腕が引かれた。

「今お前が行くと荒れるぞ」
「ハチ、でも先輩が!」
「先輩が避けずに殴られてんだ、黙って見とけよ」

僕の腕を掴んだハチを振り返ると、兵助もいた。見回すと、周辺にいた生徒の大半が現場を心配そうに見ていた。食満先輩は呆れたように額を押さえているし、善法寺先輩は挙動不審だ。そんな中、僕の名前が響く。

「あんたのせいで不破先輩はわたしに見向きもしないのよ!」

頭が痛くなる話だ。先輩が叩かれた時点でそんな気はしてたのだけれど。しかし、彼女は余裕綽々といった顔でいる。

「だから何だって言うのよ」

にっこり、と擬声語が背後に見えるような笑顔で言い放って、先輩はその場から立ち去り、僕に手を振りながら近付いてきた。ハチが僕の腕を解放したので、僕は走り出す。四年生のあの子は、背を向けて去って行った。

「先輩、大丈夫なんですか!?」
「うん」
「頬、赤くなってます!医務室!」
「珍しく慌ててる雷蔵を見れたから寧ろ美味しいかも」
「そんなこと言ってる場合じゃ」
「卒業する前に一度は修羅場っての体験してみたかったし」
「僕のせいで」
「小平太にど突かれるのに比べれば全然痛くないわよ」
「先輩、聞いて」
「雷蔵がちゅーしてくれたら治る」
「だから、………え?」
「ほっぺ」

全く話を聞いてないと思ったら、でもあの子残念だったわね、なんて上機嫌に言いながら、指で赤くなった頬を指した。口付けろ、ということなのだろう。これで治る訳がないのに、自然と唇を寄せていた。

「更に赤くなってますよ」
「……本当にしてくれると思ってなかった」
「先輩のことにはもう迷いません」
「おやまあ」
「それじゃ綾部です」
「はにゃー」
「誰ですか」
「喜三太」
「ああ、ナメクジの」

駄目だ、話がどんどん横道に逸れていく。もっと中身のある話がしたいと思ってるのに。早く沢山喋らなきゃ、先輩は居なくなってしまう。

「泣きそうだね、雷蔵」
「鼻の奥がつんとしてる」
「何も二度と会えないって訳じゃあないのに」
「会いに来てくれますか?」
「うん、雷蔵がわたしのこと鬱陶しく思えるくらい会いに行くよ」

鬱陶しくなんて感じるはずないじゃないですか、と笑うと、つられたように先輩も軽快に笑い出した。湿っぽいのは、先日の図書室で終わりだ。どれだけ離れていようと、先輩が生きて笑っててくれればそれで良いじゃないか。今はそれで割り切ろうと思えるようになった。来年、僕が卒業したら、一緒に仕事が出来たら嬉しい。だから、一人前の忍者になろう。胸の奥で決意して、先輩の腕を引く。身を任せて倒れ込んできた先輩を静かに抱き締めた。

「さよなら、またね、雷蔵。雷蔵が好きって気持ちは、ご両親には勝てないかもしれないけど、誰にも負けないよ」

そう言い残して、先輩は去った。まだ肌寒い季節だった。好奇の視線に取り囲まれた僕は、その後部屋で少しだけ泣いた。同室の三郎は水で冷やした手拭いを黙って差し出してくれた。これで僕達は最高学年になると思うと、寂しさも相まって中々寝付けなかった。












春が来て、桜が咲いた。春休みを終え、学園の門を三郎と道中で合流した兵助、ハチと潜ると、事務員の小松田さんが年上とは思えない笑顔で迎えてくれた。何か言いそうにしていたが、三郎に手で口を塞がれて、結局もごもご言うだけで終わった。胡乱な目で三郎を見ると、いつもの何か悪戯を思いついたような顔をされた。気にしたら負けだ。またハチによると、先輩を逆恨みした末に平手打ちした一学年下のあのくのたまは、なんでも家の事情で退学したそうだ。授業にも付いていけてなかったらしい、と兵助が補足する。先輩にはあれっきり会っていない。就職したばかりで、やはり忙しいのだろう、と自分に言い聞かせていた。結局、何処に勤めているのかは教えて貰えなかったことを休暇中に思い出したが、また会えた時に聞き出せばいいと締め括った。しかし、聞き出すまでもなかった。入学式を終えた後の始業式で、僕は絶句した。

「今年度からも事務員としてこの学園にお世話になります」

黒い忍装束を着て、小松田さんと同じく「事務」の札を付けた女性は、僕が大好きなあの先輩だった。そして僕の頭に走馬灯のように記憶が蘇っては流れていく。気が付いてしまった。彼女は嘘を一つも吐いていなかったのだ。彼女は同級生との別れを悲しんではいたが、僕や他の学年、教職員に対しては何も言わなかった。確かに、何度でもまた会える。なんだか納得は行かないけど、それよりも嬉しかった。

「先輩なら、くのいちとして活躍できる職場が幾らでもあったでしょう?」
「だって、雷蔵が迷って迷って迷ってどうしても決められない時はわたしが選んであげる、って言ったんだもの。雷蔵が迷い癖を卒業するまでは一緒にいなきゃ選べないじゃない」

だったらずっと迷っていようと思ってしまった僕は、きっと彼女に一生敵わないのだろうと思った。緑の制服は自分ではまだ違和感があったけど、先輩が似合うと言ってくれたから、すぐに気に入った。








Hello-Goodbye!









(090303/フリー配布期間は終了しました)