零崎奇譚







一、自殺志願



二、愚神礼賛



三、人間失格




































































自殺志願




女がいた。赤いワンピースに同色のショールを羽織って、薄暗い路地裏に蹲って、額は膝についている。足を飾る黒い洋靴はヒールが少し磨り減っていた。女は唯其処にいるだけであって、最早或る種の切り取られた風景画と化していた。女の傍で、痩せこけた猫が一匹死んでいた。背から血を吹き出して、横に倒れている。血は大分、乾いて黒くなっていた。
男がいた。針金の様な、細身で長身の男で、全身をスーツで固めて、髪をオールバックにしてある。眼鏡の奥の瞳は仄かに笑んでいて、か細い鼻歌を口ずさんでいた。男は薄暗い路地裏を、ゆっくりと、しかしながら軽やかに進んでいる。男は歩いた。視線の先には、女がいる。
男の靴が砂利を踏み締める、軋んだ様な音を聴いて、女の体が小さく跳ねた。男の口が半月を描く。其れに合せて、女は緩慢な動作で頭を起こす。何度か瞬きをして、男を視野に納めた。

「こんにちは。」

男に倣って、女も返す。声を出すのが久しいのだろうか、少し掠れていた。

「君が何故此処に居るのか訊いても良いかな?」
「誰も来ないから、です。」
「確かに、私以外が来る事はなさそうだ。」

男は満足したのか、うふふ、とあまり此の薄暗さに似つかわしいとは思えない笑いを零した。女は特に何か表情を浮かべるでもなく、時々瞼を上下させながら、男を見ている。

「其の猫は君が?」
「今にも死んでしまいそうでしたから。わたし、猫を殺したのは初めてです。」
「人間は殺したかい?」

こくり、と。黙って女は頷いた。足許に、錐が転がっている。尖端部分には血液の様な黒ずんだ物がこびりついていて、鋭さを失っている。

「あなたも、人殺し?」
「殺人鬼さ。」
「殺人鬼?」
「私は零崎双識と言う。」
「ぜろざき、そうしき、さん。」

不思議な名前を何度か口の中で繰り返す。きっと女は平仮名でしか認識していないが。
男、零崎双識は始終笑顔を浮かべながら、其れを見ていた。と、同時に何かを思考していた。小さな声で、何かを呟いている。

「君の名前は?」
「忘れてしまいました。」
「じゃあ誕生日と血液型。」
「全くもって覚えていません。」
「そうか。それじゃあ、」

私の妹にならないかい?零崎双識は表情を崩す事なく、女の前にしゃがむ。視線の高さを合せようと試みたのだろうが、身長のせいでそれは叶わなかった。何せ針金の様にひょろりと細長いのだ。

「妹?わたしが、ぜろざきそうしきさんの?」
「私の事はお兄ちゃんと呼んでくれて構わないよ。」
「でもわたし、また殺しちゃいます。」
「殺人鬼が人を殺して何が悪いんだい?」
「わたしも、ぜろ…お兄ちゃんと同じ、殺人鬼なんですか?」
「君は私達の家族なんだ。家族という事は殺人鬼なのさ。」
「さつじんき。」

女は、再び膝に顔を埋めた。零崎双識は微笑ましそうに、其れを見ている。女は零崎双識の話について考えている様だが、結論はいつまで経っても出ないのであろう。

「妹って、何をするものでした?」
「お兄ちゃんに甘えるものだと私は思うね。」
「わたしは殺してしまいましたけど…。」
「仕方がなかったんだよ。妹に殺される様な兄は兄じゃないんだ。」
「お兄ちゃん、は、わたしに殺されない?」
「勿論。」

零崎双識は始終笑みを絶やさなかったが、端から見ても分かる様な満面としか形容出来ない笑顔を浮かべた。傍らに転がる猫の死骸も視野に入れてしまうと、あまりにも場にそぐわない。

「わたし、お兄ちゃんの妹になりたい、です。」

零崎双識のオールバックにした髪を、生温い風が撫でた。




























































愚神礼賛




「大将さん。」
「何っちゃか?」

ある高級ホテルの一室。大将と呼ばれた麦わら帽子の青年が、一息吐いて立っていた。部屋には凄惨とも言える光景が広がっている。死体。屍体。死骸。屍骸。黒ずんだ赤が、家具にべっとりと張り付いている。死の匂いで充満している。
女は何事もないかの様に、青年に話し掛けた。片手に携帯電話。ワンピースの上に両肩から斜めに掛けられたベルトには、数々の工具が納められている。ドライバー、金槌、バタフライナイフ、工作用の鋏、その他。幾つかは血が付着していた。

「お兄ちゃんが人識くんを連れて来てほしいって…。何処にいるか知ってますか?」
「人識?知らんっちゃね。レンの用事なんて大した事ないだろうし、放っておいて良いっちゃよ。」
「でも遅くなると、人識くんが可哀相なことになりますよ?」
「………その時は助けてやってくれっちゃ。」

女は困った様な顔をして、青年を見上げた。青年は出来る限り優しく、その頭を撫でる。
穏やかな空気を切り裂く様に、無機質な電話のコール音が響き渡った。曲でも何でもない、初期設定の着信音。

「人識くんだ。」

青年は苦笑いする。女は液晶を一通り眺めて、ぱたりと二つ折りに畳んだ。「お兄ちゃんから逃げてるって。」青年が納得した風に頷いた。

「わたし、お兄ちゃんのメールに気が付いてない事にします。」
「……人識が不憫になってきたっちゃ……。」

こくり、と女が小さく首を縦に振る。青年も携帯電話を確認すると、数件のメールを受信していた。差出人だけ見て、片付ける。

「それにしても、」
「はい?」
「お前の持ち物はごちゃごちゃしてるっちゃ。」

二本のベルトを指差し、青年が不可思議な顔をする。女はきょとんとして、片方を持ち上げる。

「肩凝りの元凶です。」
「女の子には重そうっちゃね。」
「でも女の子っていろんな物を持ち歩くんです。」
「矛盾してるっちゃ。」
「矛盾してますね。」

ベルトの中から鋏を三丁取り出す。普通の鋏、工作用のぎざぎざの刃の鋏、折り畳み式の園芸用。青年は苦笑した。

「四ヶ月前の誕生日にお兄ちゃんがくれました。」
「鋏って所がその侭っちゃ…。」
「ちなみに人識くんはペーパーナイフをくれました。」
「殺傷力なさそうっちゃね…。」
「お兄ちゃんからお手紙を貰った時に使ってます。」
「………………お前ら本当に殺人鬼の姉弟っちゃか………?」

女はにこにこと上機嫌に、三丁の鋏を仕舞う。携帯電話もマナーモードにして仕舞う。

「わたしが前の家族を殺した時、錐とドライバーと鎚を使ったんです。」

其れは和やかな微笑で囁く様に零した。




























































人間失格




「人識くん人識くん、わたしお兄ちゃんから一週間程逃げてみることにしたよ。だからお姉ちゃんを助けて人識くん。」
「俺はアンタの弟になった覚えはねえよ。ていうか兄貴から逃げるって何かあったのか?かなーり無謀だぜ?」
「だってお兄ちゃんたら、会う度に四ヶ月後の誕生日の事訊くんだよ?」
「…………御愁傷様でした。」
「現在進行形で。」
「辛えな。」
「疲れるよ、人識くんも体験してみる?」
「え、遠慮しとくからな。」
「バトンタッチ。」
「だーかーらー、俺はアンタのお陰でやっと兄貴が多少なりとも離れたんだよ!今更餌食にはなりたくねえっての!」
「うんうん。という事で、一層遠く知らない知らない街に隠居して沈黙しませぬこと?」
「誰が誰を攫って行くって?」
「人識くんがお姉ちゃんを。」
「俺はアンタを家族とは認めてない。逃げんなら曲識のにーちゃんにでも頼んでみろよ。」
「やだ。曲識さんは双識兄さん過保護症候群なんだよ?わたし引き渡されるよ?忍びないでしょ?ねーだからよろしく人識くん。」
「大将。」
「忙しいって。こないだスーツ着てる大将さんと擦れ違ったよ。お互い何も言ってないけど。」
「あーもう!一人で行けよ!」
「何言ってるの人識くん。旅は道連れ世は情けよ?殺人鬼にも情けだよ。」
「…………。」
「京都行きたいなー。西で解体したいなー。レンアイしたいなー。」
「勝手に行けよ。」
「折角通り魔でお金稼いでる人識くんに八ツ橋奢ってあげようと思ってたのに。」
「行きゃ良いんだろ…。」
「人識くん大好き!お姉ちゃんは良い弟を持ったよ。」
「兄貴に見付かったら俺一人で逃げるかんな。」
「大丈夫大丈夫。地獄の果てまで人識くん追い掛けてくから。」
「傑作だぜ…。」

















ゆあちゃんに捧げます。